艦砲射撃による釜石の大被害
遠野の郷の東隣には釜石市があります。
昭和20(1945)年当時の釜石市は、国内の鉄鋼生産量一、二を争う日本製鐵釜石製鉄所があったこともあり、既に市制を敷いていました。
ただ、この当時東北で唯一の製鉄所だった釜石製鉄所、そして鉄鉱石を産出する鉱山の存在により、資源を自給できる貴重な軍需工場地帯という性格があったため、軍事的な重要度は極めて高く、アメリカ軍の攻撃目標になりました。
釜石市は、昭和20年7月14日と、長崎に原子力爆弾が投下された8月9日の二度にわたって三陸海岸沖のアメリカ艦隊から艦砲射撃を受け、大きな被害を出しました。1回目の艦砲射撃はアメリカ海軍部隊単独でのものでしたが、2回目のものはアメリカ海軍とイギリス海軍の合同部隊によるものでした。
また、最初の艦砲射撃被害は、太平洋戦争で日本本土が初めて受けた艦砲射撃被害でした。
釜石製鉄所は、1回目の被害後、辛くも復旧し操業を再開できる状態になっていましたが、2回目の艦砲射撃により工場が完全に破壊され、機能を停止しました。
この二度にわたる攻撃により、782名が死亡し市街地は一面焼野原になりました。艦砲射撃とあわせて、艦載機による機銃掃射が行なわれましたが、
アメリカ軍による記録が残っておらず、詳細は不明です。
遠野中学校生徒の体験
当時、本校の淵源である遠野中学校(旧制中学校)には、広範囲の地域から入学している生徒がおりました。これは、創立開校当時からの状況です。開校当時、遠方から親元を離れて入学する生徒は、それぞれ当時の遠野町の親類や縁者、知己を頼って下宿生活を送っていました。しかし、開校後1、2年を経るに従って下宿生徒数も増え、学校にとって、寄宿舎を設置することが課題となりました。
そこで、開校から3年後の明治37(1904)年、仮寄宿舎を開設しました。この仮寄宿舎は昭和3(1928)年に「城西寮」と命名されました。
以下に紹介する手記の著者も、釜石市の上中島町出身で、当時、城西寮に寄宿していた生徒です。昭和19年に遠野中学校に入学し、戦後、学校制度が変わったこともあり、新制高校となった遠野高等学校を卒業しました。
釜石市を襲った艦砲射撃の被害体験について、彼の手記を「遠野高校百年史」から一部抜粋して紹介します。
手記の中で「その頃、在校生は二つの班に分かれ、一つの班は米通の開墾作業、別の班は校庭の片隅で防空壕掘り作業をしていた。」とあります。
当時の遠野中学校では、すでに授業は停止されており、生徒は様々な作業に動員されていました。また、昭和19年の戦時非常措置により中学校(旧制)はそれまでの5年制から4年制になっていました。
当時、1年生と2年生は、土淵村(現在の遠野市土淵町)栃内米通山中で、食糧生産のために栗林を伐採し開墾する作業に動員されており、3年生は、気仙郡大船渡町(現在の大船渡市)の三井造船大船渡造船所で木造船の製造に動員、4年生は、県外である神奈川県横浜市の横浜海軍航空技術支廠での動員中でした。
手記の筆者である貫洞さんは2年生でしたので、手記中にある「米通の開墾作業」とは、土淵村山中で栗林を伐採し開墾する作業のことを指しています。
この開墾作業にあたった生徒は、宿泊所から開墾地までの5㎞ほどを朝夕往復して作業にあたりました。家庭用の手ノコギリなどの貧弱な道具で、樹齢数十年にもなる栗の木を伐倒する作業は、中学生の手に負えるものではなかったと伝わっています。
釜石大観音
この記事の見出し画像は、釜石大観音のものです。釜石大観音は、昭和45(1970)年、釜石湾を一望する高台、釜石市大平町鎌崎半島に建立されました。明治29(1896)年6月の明治三陸大津波や、戦時中の二度にわたる艦砲射撃被害等の歴史を踏まえ、人々の幸せと世界平和を念願として建立されたといいます。