宮澤賢治像
本校の前庭には、宮澤賢治像が建っています。
このブロンズ像を支えている石碑の背面には「本像は高田博厚先生 宮澤清六氏 および昭和四十八年度卒業生父兄の御好意によって建てられた 昭和四十九年 春」と記された銘板が嵌め込まれています。
「なぜ、遠野高校に宮澤賢治像?」なのか。
その謎を解き明かす際、重要なことは、このブロンズ像建立を事実上主導した、本校(岩手県立遠野高等学校)第10代校長の鈴木實氏の存在です。
🌌鈴木實校長と宮澤賢治🚂
鈴木實校長は、当時の東北砕石工場(現在:一関市東山町)で、工場長として晩年期の賢治(享年37歳)と一緒に仕事をするとともに、賢治の活動を支えた鈴木東蔵氏の長男でした。
こうした事情から、鈴木實校長は賢治に私淑し、終生尊崇の念を抱き続けたといいます。また、賢治の実弟である清六氏も、鈴木家と二代にわたって親交を結んだといいます。
🌌建立🚂
鈴木實校長は、高田高校、次に遠野高校、そして花巻北高校の校長を歴任し、自分が赴任した各地に石碑や胸像を建てました。
鈴木實校長が、賢治のブロンズ像制作を発心したのは、東京銀座で、哲学者であり宮澤賢治を広く紹介した人物として有名な谷川徹三氏と会った際、意気投合したからだ、というエピソードがあります。なお、この徹三氏は、詩人の谷川俊太郎氏の父親です。
🌌論争🚂
本校に建つブロンズ像は、その建立当初から「似ている」・「似ていない」の論争がありました。
鈴木實校長は、協力者を介して、著名な彫刻家の高田博厚氏にブロンズ像制作を依頼しました。しかし、フランス生活の長かった高田氏は、賢治のことを知らなかったようです。高田氏は、清六氏から数枚の写真を受け取り、制作の参考として小さなスナップ写真を選んだといいます。
賢治と遠野について研究している遠野文化研究センター研究員の菊池弥生氏によると、その写真は、賢治が同工場に務める直前の昭和5(1930)年頃のものと推測できるそうです。賢治が急性肺炎などからやや回復した34歳の時のものとみられます。そのため、ブロンズ像の印象は、有名な27歳頃の肖像と比べて痩せているため、別人のようなイメージが付き纏います。
この「似ている」・「似ていない」の論争についてですが、清六氏や、像を見た人達が「『似る似ない』を忘れさせて、『賢治』を感じさせる」と述べており、「芸術的に高く評価される作品」として決着しています。
🌌「農民芸術概論綱要」の一節🚂
ブロンズ像を支える石碑の正面に嵌め込まれた銘板には「世界に対する大なる希願をまづ起せ 強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ」とあります。これは、賢治の「農民芸術概論綱要」の一節です。
この一節には、ブロンズ像建立に携わったみなさんの、本校で学ぶ生徒への熱いエールが込められていると思います。