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「校歌」誕生物語

遠野高校の校歌は「城址の西に、聳ゆる瓦」で始まります。

・・・ゆるやかに、重々しい独特の旋律で、在校生ばかりでなく、地方の
人々にも一節か二節は口ずまれている校歌・・・

遠野高等学校70年史

開校当初

 この校歌は、本校の淵源である岩手県立遠野中学校が誕生した明治34(1901)年の時点には存在していませんでした。そのため、当時の生徒達は、自作の詞を旧制第一高等学校の寮歌などの節で歌い、お互いの士気を鼓舞したものだったと伝わっています。

開校当時の校舎全景

校舎全焼

 実は、創立後6年になろうとする明治40(1907)年3月24日、理科室付近からの出火により開校当時の校舎がほぼ全焼する悲劇に見舞われました。 
 その後、新校舎の建設が進められるにつれて、新しい校舎を讃えるとともに、生徒の士気をを高めるという配慮もあってか、明治41(1908)年1月頃、校歌制定の議が起こり、生徒に対してその歌詞が募集されたそうです。

校歌誕生

 多数の応募の中から、第三回卒業生となる、当時5学年に在学中の津路正彦さんの詞が選ばれたそうです。
 なお、津路正彦さんは裁判所判事の息子さんだったそうで、勉学に熱心なだけでなく、すこぶる詩文に長じ、弁論の得意な秀才として高名だったようです。

明治40(1907)年3月24日の火災後、再建された新校舎

 選ばれた詞の源は、母校愛の精神と、火災により大部分を失い、災害を乗り越えて新しく建つ校舎を目し、心の底からこみ上げてくる喜びを感激をもって表したもので、その思いは、二番の「多賀の森風杉むらそよぎ」で、周囲の自然を謳うところなどに込められていると伝わっています。
 作曲は、当時、音楽の担当だった今野大膳教諭が担いました。
 この校歌は、明治41(1908)年2月25日に校歌として制定され、同年3月23日の第三回卒業式において、初めて歌われました

一、城趾(じょうし)の西(にし)に 聳(そび)ゆる瓦(いらか)
  旭日輝(あさひかがや)き 紫色(ししょく)に映(は)えぬ
  平和(へいわ)の霞(かすみ) 屋宇(おくう)をこめて
  健児集(けんじつど)へる 学(まな)びの母校(ぼこう)
  活氣(かっき)の精神(せいしん) 勤儉(きんけん)の風(ふう)
  久遠(くおん)に傳(つた)ふ 一致(いっち)の響(ひび)

二、修徳尚武(しゅうとくしょうぶ) 躰躯(たいく)を鍛(きた)
  天下(てんか)に誇(ほこ)る 東北男児(とうほくだんじ)
  多賀(たが)の森風(もりかぜ) (すぎ)むらそよぎ
  校旗(こうき)ひらめく 我等(われら)がまとひ
  理想(りそう)の光(ひかり) 敬愛(けいあい)の念(ねん)
  (くも)にも響(ひび)け 祝(いわ)いの声(こえ)

楽譜

 明治41(1908)年当時は、日露戦争(明治37〔1904〕年から明治38〔1905〕年9月)での戦勝後の興奮が残っていた時期ですが、この時期における校歌制定、特に歌詞について、本校の70年史では次のように評しています。

ともすると当時は、戦勝という世相に酔いしれる風潮にもかかわらず、勤倹を説き、平和を謳い、徳を修めると共に体軀の錬成、敬愛の念、理想の光、とここに学ぶ者への心構えを、七七調の格調高いものとしたものである。

遠野高等学校70年史

 校歌を作詞した津路正彦さんは、自らが卒業する第三回卒業式で、できたばかりの校歌を歌ったわけですがその時の思いはいかなるものだったでしょうか

 「遠野市史第三巻」によると、旧制遠野中学校卒業後の津路正彦さんは、東京の高等工業学校といいますから、おそらく当時の東京高等工業学校(現在の東京工業大学)に入学しましたが、そこを卒業後間もなく、肺を病んで亡くなられたといいます。


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