太平洋戦争末期の状況
太平洋戦争末期となる昭和19(1944)年には、日本の敗色は濃厚になっていました。
このような状況下で、同年の戦時非常措置により中学校(旧制)はそれまでの5年制から4年制なりました。この変更により、本校の淵源である当時の遠野中学校の昭和19年度卒業式は、昭和20年3月29日に挙行されましたが、4年生83人、5年生67人の計150人が同時に卒業することになりました。
当時の遠野中学校の生徒は、青年らしい熱情で祖国の危機に殉じる思いを募らせていました。戦前という時代背景と戦時下である当時は、学校からの指導や奨励もありましたが、陸軍士官学校や海軍兵学校への入学志願をはじめ、海軍飛行予科練習生(「予科練」とよばれました。)、陸軍特別幹部候補生(「特幹」とよばれました。)、少年航空兵等に志願する生徒が相次ぎました。
なお、昭和19年の遠野中学校教職員の兵役召集者は5名に及び、学校では教員が不足し、その補充のための助教諭採用試験が年数回に及ぶ状態になっていました。
卒業生の手記
当時、特幹に志願入隊した遠野中学校昭和19年度5年生がいました。
彼は、広島市に人類史上初めて原子力爆弾が投下された昭和20(1945)年8月6日に、広島市の爆心地から5㎞ほど離れた宇品港(当時、陸軍船舶部隊の根拠地でした。)の宇品船舶司令部通信隊に勤務していました。
彼は、昭和20年2月11日、四国香川県小豆島土佐町の若潮部隊に入隊した後、聴覚適正があったことから広島船舶通信補充隊に転属し、昭和20年7月末、宇品港勤務となっていたのです。
当時17歳だった彼の体験を「遠野高校百年史」から一部抜粋して、紹介します。
「遠野高校百年史」に掲載された手記の続きによると、当時17歳だった筆者の伊藤宣夫さんは、その後、宇品港から広島市街を縦断して、当時、広島駅の裏手にあった二葉山(海抜139m、広島市東区光が丘)という小高い山上に疎開していた中国軍管区司令部の防空壕へ移動しました。その道中で目撃した、広島市街地の惨状に衝撃を受けました。
その5日後に宇品港に戻り、特設野戦病院での被爆患者の看護任務に従事している時に、8月15日の終戦を迎え、9月10日に復員命令を受けます。
伊藤さんは原爆後遺症の発病もなく、他の岩手県出身者と一緒に帰郷しました。