盛岡藩による江戸時代後半の外国船対策
19世紀半ばに勃発した日本最大級規模の百姓一揆である「三閉伊一揆」に、遠野の郷は間接的に関わりました。
三閉伊一揆勃発の背景には、産金量が激減した江戸中期以降の盛岡藩が、財政難と相次ぐ凶作に苦しめられていたことがありました。さらに、ロシアの南下に伴って幕府から命じられた蝦夷地防備や、外国船に対する備えとしての藩内海岸部の防備問題などの重い負担もありました。
今回の記事は、「遠野、関係ねーじゃん!」の内容ですが、弘化一揆の記事を掲載したことから、それら百姓一揆勃発の背景を描くことも必要だと考え、アップしました。
盛岡藩による蝦夷地警備
外国船の来航について、徳川幕府が国防上の大きな脅威だと認識するきっかけになったのは、寛政4(1792)年に、ロシア初の公式遣日使節であるアダム・ラクスマンが根室に来航し、通商を求めた事件でした。外国といっても、特に大きな脅威だったのがロシアの南下でした。その後、寛政8(1796)年にはイギリス軍艦プロビデンス号が来航する事件も発生しました。
このような事態に、我が国初の「北方防衛」に迫られた徳川幕府は、寛政9(1797)年、松前藩主松前章広の参勤交代を中止しました。さらに、蝦夷地に隣接する盛岡藩(南部氏)、弘前藩(津軽氏)に対して、松前、箱館(現在の函館)の警備を命じました。
松前藩は、蝦夷地の領地権と徴役権(つまり徴税権)、アイヌとの交易の独占権を得て成立した日本最北の藩でした。また、松前章広の参勤交代中止ですが、既に参勤のため仙台藩領水沢(現在の岩手県奥州市水沢)まで来ていたのを引き返させるというもので、当時の緊迫ぶりが伝わってきます。
幕命による盛岡藩の蝦夷地派兵は、ラクスマン来航の翌年である寛政5(1793)年以降、断続的に行われましたが、長期にわたる派兵は、蝦夷地が幕府の直轄領とされた寛政11(1799)年~文政4(1821)年と、幕府が直轄領であることを解除して松前藩に統治を戻した(文政4年)以後である安政2(1855)年~慶応4(1868)年の2つの時期に行われました。
盛岡藩の派兵規模は、寛政5年の時は380人の藩兵を、第1次長期派兵期である文化4(1807)年から翌年にかけては1200人余りというものでした。この文化4年には、千島列島の択捉島で、盛岡藩の警備隊と上陸してきたロシア兵との間で発砲騒ぎが起こっています。第2次長期派兵期での盛岡藩は、箱館・長万部・室蘭を警備し、600余名が駐屯しました。
蝦夷地警備の諸費用として、徳川幕府からわずかばかりの支給がありましたが、大部分は自藩の負担でした。
また、蝦夷地での長期の駐屯では、生野菜等の不足、極度の栄養失調、凍傷が主原因の疾病や、事故によって、多くの盛岡藩士が亡くなりました。
盛岡藩の海岸警備
ラクスマン来航以降、盛岡藩は幕命により蝦夷地に派兵する一方、藩内沿岸部の警備を強化しました。
盛岡藩の領地は、現在の青森県東部から岩手県中部までの広範な地域でした。江戸時代、その広大さは「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われたほどでした。そのため、海岸を警備するといっても、その範囲は下北半島から釜石までの広い地域に及びました。
海岸警備のため、キリシタン禁止後に設けられた、外国船の渡来を見張るための遠見番所に警備のための陣屋が併設され、大砲を備えた台場が設置されました。
盛岡藩の支藩である八戸藩でも、陣屋を構築し台場を造って海岸警備を行いました。
このような海岸警備のために、地元の武士が動員される体制が整備されました。加えて、地元の猟師や百姓も動員されました。猟師はその射撃技術を活用するために警備隊に編入され、百姓は軍夫やその他に使役されました。
飢饉の頻発や厳しい財政状況の中で、外国船の来航という外患に直面した盛岡藩は、その重い負担を百姓に課すことで乗り切ろうとしました。これが、多くの百姓一揆が勃発した背景であり、三閉伊一揆勃発につながりました。