「弘化の三閉伊一揆」と遠野
盛岡南部氏の領地は、百姓一揆の多発地域
江戸時代、遠野の郷も版図に含む盛岡南部氏の所領である南部領は、この時代、全国で最も多く百姓一揆が発生した地域でした。
江戸時代を通して、分かっているものだけでも約3,200件の百姓一揆が発生しましたが、南部領(以下、「盛岡藩」と記します)は発生件数が突出していました。
盛岡藩と近隣藩の発生件数を比較すると、盛岡藩は約160件、秋田の佐竹領(秋田藩)は約90件、仙台の伊達領(仙台藩)はわずか5件という数字もあります。
盛岡藩の中でも、特に、三陸沿岸地域は一揆多発地帯でした。
三閉伊一揆
その中で、19世紀半ば、幕末期の三陸沿岸地域で発生した「三閉伊一揆」は日本最大級規模の百姓一揆でした。「三閉伊」とは、三陸沿岸を中心とする上閉伊(現在の主に遠野、大槌、釜石地域)、下閉伊(現在の主に田野畑、田老、岩泉、宮古、山田地域)、それに九戸(現在の主に久慈、野田地域)を加えた一帯を指しています。
「三閉伊一揆」は2回発生しています。第1次が弘化4(1847)年の冬に発生した「弘化一揆」で、第2次が嘉永6(1853)年の初夏に発生した「嘉永一揆」です。遠野の郷は、この三閉伊一揆に関わりました。
嘉永6年といえば、マシュー・ペリーに率いられたアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀に来航した事件、いわゆる「黒船来航」があった年です。ちょうど嘉永一揆が起こっている時にペリーは浦賀にやって来たのでした。
弘化一揆
弘化4(1847)年の冬、三陸沿岸の野田、宮古、大槌地域の百姓約1万2千人が、税の減免と藩政への不信を訴えて一揆をおこし、遠野の鍋倉城下に押し寄せました。つまり、弘化一揆は、遠野南部家への強訴という形で行われました。鍋倉城は、遠野1万2000石の所領を治めていた遠野南部家の居城でした。
この年、盛岡藩は、領内に新たな税や、約5万2千両の御用金を課しましたが、三閉伊地域には他地域より多額の御用金を賦課していました。これら盛岡藩の圧政に対して、三閉伊地域の百姓達は藩政改革を訴えて立ち上がったわけです。
この一揆に対しては、当然のことですが、武士だけでなく一揆勢の移動進路沿いの人々も最大限の警戒をしました。このような中、一揆勢は、「狼狩り」に出るとか、「手間取り(賃銭稼ぎという意味)」に出かけると言って参集し、前進しました。
一揆の総頭人、弥五兵衛
一揆には何人かの頭人(リーダーという意味)が現れましたが、その中で中心となって活躍したのが、百姓だった切牛弥五兵衛(佐々木弥五兵衛)でした。
彼は、現在の岩手県下閉伊郡田野畑村切牛又は下閉伊郡岩泉町小本出身とされ、塩や海産物を内陸に運び雑穀などと交換する商業的農民でした。一揆の当時、70歳近くでしたが、筋骨頑健で弁舌爽やかな、いわゆる「口利き」タイプの人物で、「小本の祖父(おもとのおど)」と呼ばれ慕われていたと伝わっています。
一揆勢の遠野への押し寄せ
「遠野市史」によると、一揆は、弘化4(1847)年11月20日(グレゴリオ暦では12月27日)頃、集合した一揆勢は、南に向かって押し出し、24日に宮古に押し寄せ、28日に大槌に入りました。そして、29日に遠野の地に入りました。グレゴリオ暦では弘化5(1848)年1月5日のことになります。
遠野では、当時、百姓一揆のことを「押し寄せ」とよんでいました。
一揆勢が遠野の地に押し寄せた時の様子について、「遠野市史」には以下のように記されています。なお、以下の証言は、大正年間に古老から聞き取りした内容なのだそうですが、当時の緊迫した様子がリアルに伝わってきます。
一揆勢約1万2千人は、早瀬川の河原に野営して、新税の撤回をはじめとする26カ条の要求を提出しました。
一揆勢が居座った鍋倉城下の様子について、「遠野市史」に古老の証言が掲載されています。
当時の緊迫した様子がよく伝わってきます。
なぜ、遠野に押し寄せたのか?
一揆勢の要求は、要するに藩政改革ですから、直接、盛岡藩の城下町である盛岡を目指すべきと思われますが、遠野城下に到達しました。なぜなのでしょうか。
当時、遠野を統治していたのは、盛岡藩主の分家である遠野南部家でした。遠野南部家は代々、盛岡藩家老首座、盛岡城代家老を勤め、別格諸家との位置付けで南部氏宗家と同等の家格で遇されていた家柄でした。ですから、遠野南部家領は盛岡藩の支藩という位置づけになりますが、単なる支藩ではなく、領内の裁判権を保持するという特権を認められた存在でした。当時、遠野南部家の特権的地位について、「陪臣にして陪臣にあらず」とか「藩中藩あり」と言われたようです。
遠野南部家のことについては、以下の記事をご覧ください。↓
切牛弥五兵衛を総頭人とする一揆勢は、遠野南部家の力を借りて藩政を動かそうとしたのです。
一揆勢は、5日間にわたって、今日の1月という厳冬期に河原で野営しながら、藩当局と交渉しました。ただし、一揆勢は盛岡から急行してきた盛岡藩の役人との交渉を終始拒否したのです。そのため、藩当局の交渉窓口となったのは遠野南部家でした。
なお、一揆勢が消費する大量の食糧ついてですが、鍋倉城下の町の若者らが、炊き出した飯や味噌を大桶で運びました。一揆勢は、1組か1村ごとに目印を作って集まり、暖をとるため供給された炭をおこし続け、薪を焚き続けました。
一揆の終了
藩当局は、一揆勢の要求を全面的に認めました。
盛岡藩が要求を呑んだのは、一揆が全領域に広がることや、一揆勢が隣接する仙台藩(伊達領)に越訴されることを恐れたためでした。
これにより彼らは遠野の地を引き揚げ、村々に戻りました。
一揆勢が引き揚げる際にも、遠野南部家による適切な対応がなされたことで、混乱などはありませんでした。一揆勢は、引き揚げに際して「町見物をしたい」という最後の要求をしました。見物のため町に入ることを「町入り」といいました。これに対して遠野南部家は、町入りの許可だけでなく、これに際して1人ずつに米1升と銭50文を与えて一揆勢を感激させたと伝わっています。「遠野市史」では、古老の証言として、一揆勢の町入りから引き揚げにかけての様子を以下のように記しています。
一揆勢の引き揚げの見事さは、当時の兵学者たちが「軍勢の引き揚げでもこれほど見事にはいかぬ」と絶賛したものでした。
また、遠野の地に降って湧いた大規模な一揆の押し寄せという危機に際して発揮された遠野侍の働きの目ざましさや、一揆勢の町入りに際して何の紛争も起こさせなったことは、遠野の人々に長く自慢話として伝えられました。
一揆のその後
一揆への参加者は、藩当局からなんのお咎めもなくそれぞれの村に戻りました。
しかし、一揆が沈静化すると、藩当局は公約したことを次々と破棄し、再び増税や新税の挑発を強行しました。
そのため、弘化一揆の総頭人だった切牛弥五兵衛は再度一揆を計画し、村々を勧めて回りました。そのため彼は嘉永元(1848)年、捕らえられて盛岡城下の牢に送られ獄死しました。当時、藩当局は「牢死」としましたが、実際には法の手続きを経ることのない斬首でした。
盛岡藩による圧政(一揆の背景)
盛岡藩の地理的位置
現在の青森県東部から、南部を除く岩手県地域を領した盛岡藩は、当時の稲作の北限地域に位置していました。そのため、小氷期で寒冷な気候に見舞われていた江戸時代においては、度々凶作に襲われました。
一般的に米を藩財政の基軸としていた江戸時代では、盛岡藩の財政環境は不利なものでした。
しかし、意外にも、江戸時代前期である17世紀半ば頃までの財政は、豊かなものでした。その要因は領内で100以上と伝えられている金山の開発によるものでした。
しかし、70年間ほど続いたゴールドラッシュもやがて終わり、次第に財政は悪化していきました。
産金量激減に伴う財政難
産金量が激減した江戸中期以降の盛岡藩は、財政難と相次ぐ凶作に苦しめられました。藩財政は、金山を銅山に転換して得られた銅や、北上高地から産出される豊富な鉄、三陸沿岸地域(つまり、三閉伊地域)の水産物によって支えられ、他にも様々な産業奨励が行われました。しかし、相次ぐ凶作による厳しい年貢収入と、行き詰まりも見えた各種産業の実態により、藩財政は極度に困窮しました。
藩財政が困窮しても、藩経営に要する諸経費には節約が難しい現実もありました。例えば、幕命による手伝い普請や、蝦夷地(現在の北海道)防備や藩内海岸の防備の問題がありました。これは、18世紀末から重大な脅威だと意識されたロシアの南下に伴うものでした。津軽海峡によって隔てられていたといっても、蝦夷地と隣接(盛岡藩の最北部である下北半島の大間と蝦夷地との最短距離や約18kmしかありません)していた盛岡藩は、幕命によって、近隣諸藩とともに蝦夷地の防備を行う軍役が課せられ財政負担が増しました。
20万石への高直し
さらに、文化2(1805)年には、幕府が、盛岡藩が積念の希望としていた家格の上昇を認めました。それまでの10万石から、20万石へのアップでした。これは、盛岡藩の蝦夷地防備の功績によるものとされました。しかし、藩の石高が2倍になったといっても、領地が増えるといった知行域の拡大があったわけではありません。領地に変更がないのですから、年貢が増えた訳ではありません。つまり、税収が増えた訳ではない中での石高2倍でした。
困窮していた盛岡藩がなぜ20万石への上昇を希望していたかといえば、当時の石高とはその身分を規定しているものでもあったからでもありました。厳しい身分制度の下にあった当時は、大名も身分によって厳密に格付けがされていました。ですから、ざっくり述べると、10万石から20万石になったということには、それだけ身分が上がったということでもありました。ちなみ、20万石になったことで、盛岡藩は大名の中で上から23番目の位置になりました。それまでの10万石では、ざっくり40番目辺りでした。1万石以上の武家が大名家ですが、江戸時代、260~270家くらい存在していました。
また、江戸時代の大名は、その居地・居住からも格付けされました。その格付けは、国主、準国主、城主、城主格、無城(陣屋)の順番でした。そのトップである国主は、領地が一国以上である大名を言い、太守、国持大名ともいいました。当時の東北地方にあった国は、ざっくりいって陸奥国(だいたい現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県)と出羽国(だいたい現在の秋田県、山形県)の二国でした。ただし、陸奥国と出羽国は、その領域が広大であり、国の一部しか支配していない仙台藩(伊達氏)や盛岡藩(南部氏)、秋田藩(佐竹氏)、米沢藩(上杉氏)は国主扱いになっていました。盛岡藩については、10万石時代は城主でしたが、20万石になったことで、準国主を飛び越えて国主になったのです。
しかし、高直しが行われて石高が上昇すれば、それに伴う軍役等の義務負担も増加します。例えば軍役については、徳川幕政下、100石あたり5人の軍役義務がありました。そのため、10万石なら5千人でしたが、20万石になって1万人の軍役となった訳です。収入が変わらない、いえ相次ぐ凶作で厳しい状況なのに、求められる支出はこのように増加しました。
このような状況下で、盛岡藩は幕末期を迎えます。
幕末期の三閉伊地域では、ようやく鉄や魚油、魚粕が商品化され、経済的に発展しつつありました。一方、花巻を中心とする盛岡南方の水田地帯は、天保期の飢饉と一揆の影響で、さらに収奪することは難しい事情がありました。
収奪のターゲットになった三閉伊地域
そこで、藩当局は、水産業を中心とした農耕外の稼ぎが活発に行われていた三陸沿岸地域、つまり三閉伊地域を主なターゲットにして、臨時税としての御用金を賦課し、大坂の豪商を蔵元として水産物を安く買い上げる専売制を行うことで、藩財政の好転化を狙いました。
このような藩当局の収奪ぶりは、負担の重さを実感させるだけでなく、労働の意欲を奪うことにもなったようです。このような話が伝わっています。弘化年中、宮古沖に鰯の大群が押し寄せて、浜が出漁の活気に溢れたのですが、その状況を知った藩当局は、出漁直前の漁民らに対して、課税の内容を細かに予告したのだそうです。これにより、働き損になることを知った漁民らは、ただ鰯の大群が通り過ぎるのを見送ったのだそうです。まさに、悪政ここに極まれりといった状況もあったのです。
また、このような大変厳しい状況下にも関わらず、藩当局は贅沢放恣と庶民から見られる政策を続けていました。当時の藩主は南部利済でしたが、彼は武備充実や普請、殖産興業策などの積極的な政策を推進するのが好きな藩主でした。そのため、盛岡城本丸御殿を大改造し「聖長楼」を建築したり、奥の女性を4倍ほど増やして経費を増大させたりなど、財政状況を考えず場当たり的としか見えない政策を強権的に進めました。
藩当局は、幕命で外国船襲来に備えるためという名目で御用金を賦課しましたが、その徴収・督促は極めて厳しいものでしたし、最初に述べたように、三閉伊地域には他地域より多額の御用金を賦課するなどしました。
これらのことから、三閉伊地域の百姓の不満が爆発し、大規模な一揆の勃発に至ったのです。