27歳の青年校長と25歳の生徒(遠野高校爆誕の頃)
遠野高校の淵源は、明治34(1901)年5月1日に授業が開始された、男子校「岩手県立遠野中学校」という旧制中学校です。
遠野中学校の開校は、遠野の人々による猛烈な早期設置運動によって実現したものでした。
明治33(1900)年6月5日の岩手県会で、福岡中学校と遠野中学校の同時設立案が議決され、翌34(1901)年1月31日に文部省から学級数8、生徒定員400人で設置が認可されました。
🏫鹿児島県出身、27歳の青年校長
初代校長は、鹿児島県出身で東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業した文学士で、着任当時数え年27歳の池田貞雄でした。
当時は、23〜24歳で大学を卒業できましたが、上級学校と下級学校の接続が円滑でなかったという事情や、進学の難易度が高かったことから、平均的な大学卒業年齢が26〜27歳だったといわれていますので、おそらく、東京帝国大学を卒業してすぐの校長着任だったのではないかと考えられます。
池田貞雄初代校長が東京帝国大学を卒業したであろう明治32(1899)年当時の大学は、東京帝国大学と、京都帝国大学(現在の京都大学〔明治30〖1897〗年創立〕)の2校のみでした。当時の東京帝国大学の卒業生数は、1年に100人程度でした。
なお、「明治45年における中学校長の学歴構成」という論文によると、遠野中学校創立から11年後の明治45(1912)年当時の中学校長の学歴は、帝国大学卒業者が42.7%とのことです。帝国大学への入学年齢と在学期間は、現在の大学とは異なり、19歳以降の3年間(3年制)でした。
遠野中学校創立当時、京都帝国大学出身の公立中学校長もいたと思いますが、東京帝国大学出身の初代校長というのは、特段、珍しくなかったものと思われます。
ところで、大正8(1919)年に大学令が施行されるまで、日本において、「大学」として認められていたのは国立の帝国大学だけでした。大学令以前は、名称に「大学」と付している高等教育機関の内、帝国大学以外は専門学校と位置付けされていました。例えば、早稲田大学は明治35(1902)年に「早稲田大学」と改称していましたが、大学令までは、正式には専門学校でした。
🏫開校当時の入学生・卒業生・授業の様子
校長が九州出身だったためか、教師の大部分は九州出身者だったようです。
遠野中学校第1回入学生は、それまでの長い期間、入学を志望していた多くの若者がいたこともあって、年齢なども構わず入学が許可されたようで、106人と多かったのですが、20歳を過ぎた者も多くいて、中には25歳という者もいました。
校長が27歳で、生徒が25歳。現在では、とても考えられないですね。
この年齢事情が、明治中期頃の、そして生まれたばかりの遠野中学校の若々しさと熱気を示しているように感じます。
第1回入学生は106名でしたが、卒業したのは37名で、卒業に至るまでの道の険しさが見て取れます。しかし、37名の卒業生の6割以上(22名)、第2回卒業生(38名)の4割近く(14名)、第3回卒業生(36名)の6割以上(23名)、第4回卒業生(18名)の8割近く(14名)は、上級学校に進学しました。これらの高い進学率は、当時、稀有のことであったといわれます。
なお、当時は標準語もなかったため、教師は、めいめいが郷里の方言そのままで教授していました。そのため、生徒は何をしゃべっているのか分からず困ったということが頻発したようです。
植物学の教師は鹿児島県出身の農学士でした。生徒達は彼の授業を、1時間、一生懸命に聞きましたがついに始めから終わりまで、彼の言葉の意味を一言も理解できなかったという話が残されています。
🏫明治の話し言葉の状況と標準語誕生への経緯
明治になって、日本が中央集権体制の国家になって以後も、話し言葉といえば、全国各地の方言しか存在していませんでした。近代日本において公的な学校教育がスタートしたのは明治5(1872)年の学制発布ですが、この時「国語」という教科はまだありませんでした。言葉に関する近代日本草創期の状況はこのようなものでした。
しかし、言葉が通じない弊害や、全国共通に通用する言葉の必要性については認識されていました。ただし、この段階では日本語における「標準語」という名称や概念は確立されていませんでした。
明治28(1896)年、帝国大学博言学科の初代日本人教授になった上田万年が、初めて「標準語」の必要性を訴えました。これを受けて、文部省に国語調査委員会が設置されたのが明治35(1902)年でした。明治35年というと、遠野中学校が開校した翌年のことです。
このような国家的状況でしたから、教師の言葉を生徒が理解できず困ったということが頻発したのです。
ちなみに、この農学士である植物学の教師は「学士」ですから、当時、「大学」として認められていた高等教育機関を卒業したのだと思われます。当時の大学は、東京帝国大学と京都帝国大学だけで、この当時、農学部を設置していたのは東京帝国大学ですから、この教師も東京帝国大学出身者だったのだと推測できます。ただ、この農学士である植物学の教師の年齢がどうなのかという問題と関係しますが、彼は、帝国大学制度が始まる前にあった専門学校としての高等教育機関出身者だったのかもしれません。それは、札幌農学校(後に東北帝国大学を経て北海道帝国大学となった、現在の北海道大学の淵源)又は駒場農学校(後に帝国大学に統合され、現在の主に東京大学の淵源)だった可能性もあるということですが、詳細は不明です。
余談ですが、文豪の夏目漱石(本名:夏目金之助)は、明治28(1895)年、事情があってでしたが、友人の斡旋で校長の俸給よりも高い給料という破格の待遇で、英語教師として愛媛県尋常中学校に赴任しました。彼も帝国大学(明治30〔1897〕年以降は東京帝国大学)を卒業した文学士でしたね。
尋常中学校とは、明治19(1886)年の中学校令公布から明治32(1899)年の中学校令全面改正までの間設置されていた中等教育機関です。本校の淵源である岩手県立遠野中学校は、「尋常」ではありませんでした。
🏫池田貞雄初代校長の転出
遠野中学校の立ち上げに、3年間にわたって尽力した池田貞雄初代校長は明治37(1904)年、新しい任地であり、自身の出身県である鹿児島県立川辺中学校(現在の鹿児島県立川辺高等学校)第3代校長として転出しました。
池田校長の遠野中学校での活躍を知った鹿児島県が懇請し、これに応じた異動だったと伝わっています。