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遠野高女に疎開した釜石高女の生徒

 本校は、明治34(1901)年5月1日に授業が開始された、男子校「岩手県立遠野中学校」淵源とし、昭和24(1949)年4月1日に、明治41(1908)年に設立された「遠野町立女子職業補習学校」を淵源とする女子校と統合して、現在に至ります。
 本校の歴史を辿る際、男子校だった学校を「旧中学校」と呼び、女子校だった学校を「旧女学校」と呼んでいます。
 なお、明治41(1908)年に設立された「遠野町立女子職業補習学校」は、その後、幾多の変遷を経て、大正15(1926)年に「岩手県立遠野高等女学校」と改称されました。


遠野と釜石市

 遠野の東隣には釜石市があります。

釜石は遠野の東隣に位置します
中世以降、遠野と釜石は釜石街道によって結ばれています
釜石街道を通って二つの地域を行き交うためには、
標高887mの仙人峠を越える必要があります
現在国道286号線が通っています

 昭和20(1945)年当時の釜石市は、国内の鉄鋼生産量一、二を争う日本製鐵釜石製鉄所があったこともあり、既に市制を敷いていました。

釜石市は、太平洋戦争で日本本土で初めて艦砲射撃され大きな被害を被りました

 釜石市は、昭和20年7月14日と、長崎に原子力爆弾が投下された8月9日二度にわたって三陸海岸沖のアメリカ艦隊から艦砲射撃を受け、大きな被害を出しました。

 ↑ 7月14日の艦砲射撃の記録
 この二度にわたる攻撃により、782名が死亡し市街地は一面焼野原になりました。艦砲射撃とあわせて、艦載機による機銃掃射が行なわれましたが、
アメリカ軍による記録が残っておらず、詳細は不明です。

遠野の郷、釜石市から学童疎開を迎える

 日本製鐵釜石製鉄所のある釜石市がアメリカ軍の襲撃の標的になることは十分に予想されていました。
 そこで、昭和20年3月、岩手県は釜石市内の国民学校(6年制で、現在の小学校)児童の上閉伊郡西部各町村(現在の遠野市)への「学童疎開」を命じました。同年4月8日、釜石市の国民学校初等科3学年以上の児童が、親元を離れ、仙人峠を越えて、現在の遠野市に疎開しました。釜石国民学校の児童は遠野国民学校と綾織国民学校、遠野高等女学校に、大渡国民学校は上郷国民学校に、八雲国民学校は松崎国民学校と青笹国民学校に、中妻国民学校は遠野国民学校に、それぞれ疎開しました。遠野高女への疎開者の寝所、宿泊所として、遠野高女校舎の家事室、裁縫室、第2校舎の階下2教室が当てられました。

遠野高等女学校校舎と、本校者裏側の桜樹
満開の時は、それは見事なものでした

 当時の遠野高女の校舎は、現在、遠野市立遠野小学校がある地にありました。

釜石高女1年生も遠野高女に疎開

 釜石市が二度目の艦砲射撃被害を被った翌日の8月10日、釜石高等女学校の1年生も遠野高等女学校校舎に疎開しました。
 

             手記集 戦時下の青春
釜石高女生徒の疎開
                   泉田 環
※筆者泉田環は当時釜石高等女学校1年生。当時の遠野高等女学校の校舎に疎開した。
 昭和20年8月10日、それは釜石が2回目の艦砲射撃を受けた翌日、私たち釜石高等女学校1年生の集団疎開出発の日でした。今日も砲撃があるのではないかという不安を胸に登校した校庭には昨日の艦砲射撃で亡くなられた人々が遺体となって並べられていました。その異様な光景を後に出発したのでした。鉄道も不通になっていて、次の駅から汽車に乗れるから頑張れと
先生に励まされながら、とうとう大橋まで歩いたのでした。
 途中、敵機が頭上を飛び、傍らの畠に伏せて、じっと通り過ぎるのを待ちました。
 「おっかねがったねー」と立ち上がった時は土で黒くなった顏を見合わせながら「今のところはミョウガ畠だったよね。鼻がツンツンした」と笑い合う余裕もありました。
私はなんの畠だなんて考える余裕もありませんでしたけど、とにかく皆無事だつたのです。
 昨日の今日なので、お弁当を持たずに来た人もありました。途中の安全なんで誰も保証できないのですが、とにかく子供を安全な所へ離さなければならなかった親の気持ちはいかばかりだったのでしょうか。どんなときでも善意の人がおられるもので、大橋では大豆入りのおにぎりが差し入れられました。
 疲れきった私達には仙人峠という苛酷な峠が待っていました。これを越えないと目的地の遠野には着かないのです。よく歩いたものだと思います。やっと軽便鉄道に乗れたときはどんなにほっとしたことか。遠野女学校で上級生の出迎えを受けたときは、体から力が抜けて行く思いでした。
 その日はもう遅く、先に送っていた荷物をほどくことも出来ず、持っていたおにぎりを食べた後は、上級生の布団に寝かせてもらうことになりました。私を連れて行ってくれた上級生は「大変だったねぇ、疲れたでしょう」と私が眠るまでウチワで扇いでくれました。
 前日の艦砲射撃で、親や弟妹を亡くされた人もあって、とても悲しい思いをしたものでした。出発前は、初めて親元を離れて暮らす事に興味を持ったりしたのでしたが、いざ離れてみると、夜、親や兄弟姉妹を思い出し、寂しい思いもしました。その寂しさを吹き飛ばしてくれるのが蚤の大群でした。山のそばの教室だったためか夜中は蛋に悩まされ、布団の中に樟脳を入
れて寝たものでした。
 洗顏や洗濯は、田に引いている水だったのでしょうか、山裾を流れる小川でした。お風呂は集団で銭湯に行きました。一本町の釜石とは違い、遠野は城下町だから道路が碁盤の目のようになっているのだと教えられたり、帰りの道を間違わないように気をつけ合ったり、町を眺めながらのお風呂行きが唯一の外出だったのです。
 疎開して5日目に終戦を迎え、戦争に負けたら男は皆殺しになり、女は皆つれ去られると信じでいた私達は、恐ろしくて家に帰りたいと泣きわめくものですから、先生方は1年生全員を一つの教室に集め、男の先生の「お前たちは俺が守ってやる」という言葉に勇気づけられたのでした。
 疎開期間が短かったからでしょう、滞在中授業は1時間もなかったと思います。遠野女学校に転校した友達を教室の窓办ら見つけては喜んだりしました。
 とにかく毎日お腹がすいていました。先生や上級生が作ってくれるヒエご飯は、お米の量に対してヒ工が多すぎるためメッコ飯になるのです。工夫の結果、別々に炊いて、丼にはヒエの脇にご飯が少し盛られるのでした。昼は、皆でとってきた山菜が入った雜炊です。美味しいと言えるものではなかったのでした。
 食べ物が不足すると、人の気持ちまでも貧しくなり、家から持って行った炒り豆や炒り米など残っている者は分けてやる事をしなくなり、隱して食べるようになりました。
 ある時、私が「ご飯だよ」と冗談に言ったところ、間髪をいれず皆箸を持って一斉に食堂へ走ったのです。
 私は嘘だと言う余裕も無く、大変なことをしたと恐ろしくなったものでした。とにかく皆いつもいつもご飯を待っていたのです。

遠野高校百年史

 釜石高等女学校は、現在の釜石高校です。

釜石街道の難所「仙人峠」

 当時、遠野と釜石市は宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」のモデルになった岩手軽便鉄道によって途中まで結ばれていました。岩手軽便鉄道は、現在のJR東日本釜石線の基になった路線です。
 途中までというのは、岩手軽便鉄道が花巻から遠野を経て上閉伊郡上郷村(現在の遠野市上郷町)の仙人峠駅まで通じていて、釜石から大橋駅(釜石市甲子町)間が、釜石鉱山から釜石製鉄所への鉱石を輸送するために用いられていた鉱山鉄道の釜石鉱山鉄道によって結ばれていました。ただし、仙人峠駅と大橋駅間は繋がっていませんでした。貨物・郵便物・新聞などの物品は、仙人峠と大橋駅間にあったロープウェーによって運搬できましたが、旅客は、仙人峠駅からは峠までの2.1kmを上がり、そこから九十九折の急坂を大橋駅まで3.4kmの、あわせて2時間半から3時間かけて歩くか、個人営業の駕籠の便を利用するしかありませんでした。釜石市から遠野に向かうためには、標高254mの大橋駅から標高差633mを登って仙人峠(標高887m)を踏破し、標高560mの仙人峠駅に到着して、やっと鉄道に乗れるということになります。手記に「軽便鉄道に乗れたときはどんなにほっとしたことか」とありますが、二度目の艦砲射撃後で不通になっている釜石鉱山鉄道を尻目に釜石の町から歩き通しだったわけですから、その時の安堵感がどれほどのものだったかと思います。
 仙人峠を穿つトンネルと、花巻から遠野を経て釜石までを結ぶ列車の全通は、遠野や釜石の人達の長年の悲願でした。花巻と釜石を結ぶ国鉄釜石線が全通したのは、戦後である昭和25(1950)年10月のことで、この時、全線は、軽便鉄道(一般的な鉄道よりも規格が簡便で軌間が狭く、安価に建設された鉄道)が、一般の広軌の鉄道として生まれ変わりました。加えて、道路として仙人峠にトンネルを掘り、遠野と釜石市を結ぶことは、昭和34(1959)年9月に仙人有料道路の完成として、実現しました。

空襲被害を受けなかった遠野

 太平洋戦争において、釜石市が艦砲射撃を受けただけでなく、岩手県下各地には艦載機が来襲しました。岩手県の発表によると、昭和20年3月10日から終戦の8月15日までの間における空襲による県下の被害は、被災戸数6218戸、被災者数26,776人、死者数727人で死者の内149人が児童でした。
 ただし、遠野地方は、艦載機の来襲がなかったため被害はありませんでした。釜石市から、艦載機からの機銃掃射に怯えながら徒歩で仙人峠の難所を踏破して疎開した児童生徒にとって、遠野は安全な疎開先になりました。
 なお、手記の中に出てくる「メッコ飯」とは、「芯まで炊けていないご飯」という意味の方言です。


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