織田信長公に、遠野の領主が白鷹を献上したこと
遠野の郷の近世、つまり安土桃山時代から江戸時代、特に八戸南部氏がそれまでの領地である八戸の地から遠野に移封されて、遠野十二郷(田瀬・鱒沢・小友・綾織・宮森〔現在の宮守〕・大槌・釜石)の内、大槌・釜石を除く地域を統治して以降の歴史は比較的よく分かっています。
八戸南部氏は、遠野に入部した寛永4(1627)年以降、歴史的には遠野南部氏と呼ばれます。
しかし、南部氏が統治する以前の中世期の様子については、よく分からないことも多いようです。それは、鎌倉時代から遠野の郷を統治していた阿曾沼氏の支配が安土桃山時代から江戸時代に移り変わる時期で終わったためでした。
そのような中ですが、阿曾沼(「あそぬま」と読みます。)氏が、あの織田信長に鷹を贈ったという史料が残されています。その史料とは、織田信長の戦国時代から安土桃山時代にかけての一代記である「信長公記」です。信長の家臣だった太田牛一が江戸時代初期に著したもので、「信長記」とも呼ばれています。
「信長公記」の記述
「信長公記」に登場する遠野孫次郎とは、当時の遠野領主である阿曾沼孫次郎広郷(「あそぬま まごじろう ひろさと」と読みます。)だと考えられています。当時の阿曾沼氏は、鎌倉時代以来約400年間、遠野の郷を統治していたことから、「遠野氏」と名乗っていました。
戦国時代を生きた阿曾沼広郷(16世紀末)
阿曾沼広郷は、それまで現在の松崎町光興にあった居城の横田城を、鍋倉山に移して横田城(ややこしいですが、城が移された当時は「横田城」と
よんでいました。この横田城を「鍋倉城」と改称したのが遠野南部氏です。)と称しました。
城を鍋倉山に移した後、中河原と称していた河原に町を開き、一の日の市日をここで行うようになりました。この頃から中継商業の中心地としての遠野の郷の条件が次第に整えられてきました。
広郷は武勇にも優れており、加えてこのような施策を行ったことで、阿曾沼氏は16世紀末に最盛期を迎えました。
「阿曾沼荒廃記」
この「天正7(1579)年7月、阿曾沼広郷による白鷹の織田信長への献上」について、江戸時代に遠野南部氏に仕えた宇夫方広隆(「うぶかた ひろたか」と読みます。)が18世紀に著した「阿曾沼荒廃記」に、この間の経緯について記しています。18世紀の記録ですから、今から300年ほど前に記されたものです。宇夫方氏は阿曾沼氏に連なる一族だったようで、阿曾沼氏の遠野統治が終わった後も、遠野の地で新しい主君に仕えていました。
宇夫方広隆の「阿曾沼荒廃記」は漢文体で読み難いですので、その内容を、高柳俊郎著「私本阿曾沼荒廃記」から引用して紹介します。
「信長公記」に記された「石田主計(「いしだ かずえ」と読みます。)」は、土淵村石田にいた宗順坊(「そうじゅんぼう」と読みます。)という山伏のことでしょう。大峯山(「おおみねやま」と読みます。)は、修験道の根本道場として現在まで1300年以上の歴史があります。歴史的には単独の山を指すのではなく奈良の吉野山から熊野へ続く長い山脈全体を指しています。山伏である宗順坊ですから、道場である大峯山に修行に向かうという体であれば、疑われないという配慮です。
なお、「阿曾沼荒廃記」には到着地を岐阜としていますが、「信長公記」では安土城となっており、こちらの方が正しいようです。
「阿曾沼荒廃記」によると、献上した白鷹は、遠野の小友村で生まれ、巣から獲った雛を鷹取屋(「たかとりや」と読みます。)という鳥屋に移し、ここで飼育したものだといいます。現在も遠野市小友町には「鷹取屋」という土地があります。
信長から阿曾沼広郷への謝礼の返事の内容についても、その大意の箇所を「私本阿曾沼荒廃記」から引用して紹介します。
「阿曾沼荒廃記」には「また家来の中から勇気があり賢い者を選んで、弟子山伏の姿にして連れていった」とありますが、この家来は、鷹取屋にいた鷹匠の沖館氏のことではないかと考えられているそうです。
沖館氏は、遠野の領主が阿曾沼氏から遠野南部氏に替わってからも引き続き召し抱えられました。
「遠野物語」第91話に出てくる鷹匠の鳥御前
(とりごぜん)
この鷹匠の沖舘氏らしき人物については、「遠野物語」の第91話にも出てきます。
「遠野物語」に「南部男爵家」とあるのは、遠野南部氏が明治30(1897)年、特旨により男爵となっていたからです。
遠野南部氏の男爵叙爵は、柳田國男が「遠野物語」を発表する13年前の出来事であり、本校の淵源である岩手県立遠野中学校が誕生する4年前の出来事でした。