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織田信長公に、遠野の領主が白鷹を献上したこと

 遠野の郷近世、つまり安土桃山時代から江戸時代、特に八戸南部氏がそれまでの領地である八戸の地から遠野に移封されて、遠野十二郷(田瀬・鱒沢・小友・綾織・宮森〔現在の宮守〕・大槌・釜石)の内、大槌・釜石を除く地域を統治して以降の歴史は比較的よく分かっています
 八戸南部氏は、遠野に入部した寛永4(1627)年以降、歴史的には遠野南部氏と呼ばれます。

 しかし、南部氏が統治する以前の中世期の様子については、よく分からないことも多いようです。それは、鎌倉時代から遠野の郷を統治していた阿曾沼氏の支配が安土桃山時代から江戸時代に移り変わる時期で終わったためでした。
 そのような中ですが、阿曾沼(「あそぬま」と読みます。)氏が、あの織田信長に鷹を贈ったという史料が残されています。その史料とは、織田信長の戦国時代から安土桃山時代にかけての一代記である「信長公記」です。信長の家臣だった太田牛一が江戸時代初期に著したもので、「信長記」とも呼ばれています。


「信長公記」の記述

7月25日、陸奥の遠野の遠野孫次郎という者が、白鷹を献上した。石田主計という鷹匠が、北国の海路をはるばると風雨を凌いで持参したのである。誠に雪のように白い、姿かたちも優れた見事な鷹で、見物の人々も感嘆した。信長はこれを秘匿すること並々のものではなかった。
 また、出羽の仙北というところの前田利信が、これも鷹を持参して献上し、信長に挨拶した。

「信長公記」巻12 天正7年

 「信長公記」に登場する遠野孫次郎とは、当時の遠野領主である阿曾沼孫次郎広郷(「あそぬま まごじろう ひろさと」と読みます。)だと考えられています。当時の阿曾沼氏は、鎌倉時代以来約400年間、遠野の郷を統治していたことから、「遠野氏」と名乗っていました。

戦国時代を生きた阿曾沼広郷(16世紀末)

 阿曾沼広郷は、それまで現在の松崎町光興にあった居城の横田城を、鍋倉山に移して横田城(ややこしいですが、城が移された当時は「横田城」と
よんでいました。この横田城を「鍋倉城」と改称したのが遠野南部氏です。)と称しました。
 城を鍋倉山に移した後、中河原と称していた河原に町を開き、一の日の市日をここで行うようになりましたこの頃から中継商業の中心地としての遠野の郷の条件が次第に整えられてきました。
 広郷は武勇にも優れており、加えてこのような施策を行ったことで、阿曾沼氏は16世紀末に最盛期を迎えました。

この石段の先に、阿曾沼氏歴代の墓があります。
阿曾沼氏歴代の墓所
墓所の前には広く水田が広がっています。

「阿曾沼荒廃記」

 この「天正7(1579)年7月、阿曾沼広郷による白鷹の織田信長への献上」について、江戸時代に遠野南部氏に仕えた宇夫方広隆(「うぶかた ひろたか」と読みます。)が18世紀に著した「阿曾沼荒廃記」に、この間の経緯について記しています。18世紀の記録ですから、今から300年ほど前に記されたものです。宇夫方氏は阿曾沼氏に連なる一族だったようで、阿曾沼氏の遠野統治が終わった後も、遠野の地で新しい主君に仕えていました。
 宇夫方広隆の「阿曾沼荒廃記」は漢文体で読み難いですので、その内容を、高柳俊郎著「私本阿曾沼荒廃記」から引用して紹介します。

同じとき、織田信長公に音信のこと
 天正年間(1573~91)まで、日本は戦国の世で、戦が多かった時代である。逢坂の関から東の諸大名の中では、武勇と智謀を兼ね備えた名高い武将として、武田信玄・上杉謙信・北條氏康・織田信長の四人の大将があった。その中でも信長は美濃尾張から上方筋、中国あたりまで十七・八ヶ国を切り従えて都に旗をたて、官位も高く從二位右大臣に昇進した。将来は天下の大将軍になるだろうと思われて、強いという評判は四方の遠国まで伝わっていた。近い国の大小名は自分で参礼したが、遠い国の諸将は使者をたててよしみを通じた。広郷もそうしたかったのだが、あまりにも遠くにいるので直接出向くことは出来ない。使者をたてても、途中の争乱で目立たないように無事に通行することは難しい。
 それで正式の家臣ではないが、領内の土淵村石田にいた宗順坊という山伏を派遣することにした。宗順はたびたび諸国の山々に参詣して、本街道はいうまでもなく、人の往来も稀な間道などもよく知っている。それで大峯山に入峰する山伏の姿に装束させ、使いの書状を着物の襟に縫い入れ、笈の中に信長へ献上する鷹を入れて背負った。また家来の中から勇気があり賢い者を選んで、弟子山伏の姿にして連れていったそうだ。そうして二人が恙なく美濃の岐阜へたどり着いて、書状に鷹を添えて差し出した。この時、信長公より謝礼の返事が送られた。その写しが遠野に知れ渡って、今の世まで残っている。

「私本阿曾沼荒廃記」

 「信長公記」に記された「石田主計(「いしだ かずえ」と読みます。)」は、土淵村石田にいた宗順坊(「そうじゅんぼう」と読みます。)という山伏のことでしょう。大峯山(「おおみねやま」と読みます。)は、修験道の根本道場として現在まで1300年以上の歴史があります。歴史的には単独の山を指すのではなく奈良の吉野山から熊野へ続く長い山脈全体を指しています。山伏である宗順坊ですから、道場である大峯山に修行に向かうという体であれば、疑われないという配慮です。
 なお、「阿曾沼荒廃記」には到着地を岐阜としていますが、「信長公記」では安土城となっており、こちらの方が正しいようです。
 「阿曾沼荒廃記」によると、献上した白鷹は、遠野の小友村で生まれ、巣から獲った雛を鷹取屋(「たかとりや」と読みます。)という鳥屋に移し、ここで飼育したものだといいます。現在も遠野市小友町には「鷹取屋」という土地があります。

鷹取屋に向かいます。

 信長から阿曾沼広郷への謝礼の返事の内容についても、その大意の箇所を「私本阿曾沼荒廃記」から引用して紹介します。

(大意 知らない間柄でしたが、お便りをいただいて嬉しく思います。そもそも白い鷹は数多見てきましたが、今度頂いた雪のように白い鷹は初めてです。たいへん気に入りましたので、大切にします。
天正七年(1579)卯七月廿日 信長 遠野孫次郎殿)

「私本阿曾沼荒廃記」

 「阿曾沼荒廃記」には「また家来の中から勇気があり賢い者を選んで、弟子山伏の姿にして連れていった」とありますが、この家来は、鷹取屋にいた鷹匠の沖館氏のことではないかと考えられているそうです。
 沖館氏は、遠野の領主が阿曾沼氏から遠野南部氏に替わってからも引き続き召し抱えられました。

鷹匠の沖館氏の館は、旧鷹取屋小学校の敷地も含む学校の北方の山にあったようです
画像中央の丘陵部分が旧鷹取屋小学校跡地です。
鷹取屋小学校は、昭和58(1983)年に遠野市立小友小学校と統合され、閉校しました。

「遠野物語」第91話に出てくる鷹匠の鳥御前

(とりごぜん)

 この鷹匠の沖舘氏らしき人物については、「遠野物語」の第91話にも出てきます。

 遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部男爵家の鷹匠なり。町の人綽名して鳥御前という。早池峯、六角牛の木や石や、すべてその形状と在処とを知れり。年取りてのち茸採りにとて一人の連とともに出でたり。この連の男というは水練の名人にて、藁と槌とを持ちて水の中に入り、草鞋を作りて出てくるという評判の人なり。さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる向山という山より、綾織村の続石とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登りしに、あたかも秋の空の日影、西の山の端より四五間ばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の陰に赭き顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢いたり。彼らは鳥御前の近づくを見て、手を拡げて押し戻すようなる手つきをなし制止したれども、それにも構わず行きたるに女は男の胸に縋るようにしたり。事のさまより真の人間にてはあるまじと思いながら、鳥御前はひょうきんな人なれば戯れて遣らんとて腰なる切刃を抜き、打ちかかるようにしたれば、その色赭き男は足を挙げて蹴りたるかと思いしが、たちまちに前後を知らず。連なる男はこれを探しまわりて谷底に気絶してあるを見つけ、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かかる事は今までに更になきことなり。おのれはこのために死ぬかも知れず、ほかの者には誰にもいうなと語り、三日ほどの間病みて身まかりたり。家の者あまりにその死にようの不思議なればとて、山臥のケンコウ院というに相談せしに、その答えには、山の神たちの遊べるところを邪魔したる故、その祟をうけて死したるなりといえり。この人は伊能先生なども知合なりき。今より十余年前の事なり。

「遠野物語」第91話

 「遠野物語」に「南部男爵家」とあるのは、遠野南部氏が明治30(1897)年、特旨により男爵となっていたからです。
 遠野南部氏の男爵叙爵は、柳田國男が「遠野物語」を発表する13年前の出来事であり、本校の淵源である岩手県立遠野中学校が誕生する4年前の出来事でした。


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