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遠野南部氏の時代(江戸時代の遠野)

 明治34(1901)年に、本校が、岩手県内三番目の旧制中学校として誕生した背景には、遠野の地にあった、江戸時代、特に幕末期以来の教学尊重の伝統がありました。


遠野南部氏

 江戸時代、遠野の地を治めていたのは、遠野南部氏でした。
 遠野南部氏は、盛岡藩の領主であった南部氏(「盛岡南部氏」。歴史的経緯を踏まえると「三戸南部氏」)を宗家とする一族です。
 そして、遠野南部氏は遠野の地1万2500石遠野十二郷〔田瀬・鱒沢・小友・綾織・宮森[現在の宮守]・大槌・釜石〕の内、大槌・釜石を除く地域)を治めるとともに、郡奉行と検断を兼務する陸奥国代を務めるという重責を担いました。
 検断とは、刑事上の罪を検察、断罪することで、検察の検と断罪の断で検断です。簡単に述べると刑事犯人を検挙し裁判し、処罰することの総称です。つまり、遠野南部氏は領内の裁判権を持っていたということです。
 遠野南部氏は独立した大名ではなく、盛岡藩の支藩の領主で、盛岡南部氏が臣従している徳川将軍家から見ると、陪臣(家臣の家臣という意味)となります。
 江戸時代、徳川将軍家の陪臣にあたる支藩の領主で、裁判権を持っていたのは、他に、萩藩(毛利氏)の支藩の領主であった吉川氏だけでしたから、どれほど異例で、遠野南部氏がどれだけ大きな権力を持っていたのかが分かります。当時、遠野南部氏は、「陪臣にして陪臣にあらず」とか「藩中藩あり」と言われたようです。

そもそも南部氏って、どのような存在?

南部氏のルーツ

 南部氏は、清和源氏の流れを汲む名門の血族です。
 清和源氏とは、平安時代の9世紀に在位した清和天皇(第56代)の子孫です。
 清和源氏は、様々な血統に分かれますが、その中から分かれた南部氏は、11世紀に東北地方を舞台に勃発した前九年の役で、安倍氏を滅ぼした源頼義の三男で、甲斐源氏の祖とされる新羅三郎義光(源義光/しんらさぶろうよしみつ)の血統から興ります。
 源頼義の長男が八幡太郎義家(源義家/はちまんたろうよしいえ)で、その子孫が清和源氏宗家の家系となります。この家系を河内源治といいます。八幡太郎義家から数えて4代目が、征夷大将軍となり鎌倉幕府を創立した源頼朝です。
 新羅三郎義光(源義光)から3代目が武田信義(たけだのぶよし)で、甲斐武田氏の祖です。ちなみに令和4(2022)年1月9日から12月18日まで放送されたNHK大河ドラマで、八嶋智人さんが演じていました。信義から数えて16代目が、戦国大名として有名な武田晴信(信玄)です。

甲斐武田氏家紋(四つ割菱

 この武田信義の弟である加賀美遠光(かがみとおみつ)の三男が、南部氏の初代である南部光行(なんぶみつゆき)となります。
 治承4(1180)年、加賀美光行は、石橋山の戦いで源頼朝の下で戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)を与えられ、この時以降、南部姓を称したと伝わっています。
 つまり、南部氏は源頼朝と同じ清和源氏の名門一族であり、元々は甲斐国(現在の山梨県)を勢力の基盤としており、後に信玄を輩出する甲斐武田氏に連なる血統ということです。
 名門なので、どうしても説明が長くなります・・・

南部氏と東北地方

 甲斐の南部氏と東北地方の関係ですが、源頼朝による奥州藤原氏との戦いである奥州合戦で戦功を挙げて、陸奥国糠部(ぬかべ)5郡を与えられたと伝わっていますが、詳細や範囲等その真偽は不明です。
 真偽不明とはいっても、鎌倉時代に、南部氏が現在の岩手県北部から青森県の地にある程度の勢力を持つようになったことは確かなようです。ただし、鎌倉時代の南部氏は、甲斐国を勢力基盤としていたのであり、東北に直接関わることはあまりなかったようです。
 14世紀の建武の新政時、南部氏は、鎮守府大将軍の北畠顕家に従い、一族が勢力を張る陸奥国(むつのくに)に下向しました。旧国名をざっくりと説明すると、陸奥国は、現在の主に青森県・岩手県・宮城県・福島県の地域にあたります。日本海側の秋田県・山形県は出羽国といいました。
 南北朝時代には、南朝方の北畠顕家から糠部郡の国代に任じられ、南部氏一族は陸奥国の北部に分散してそれぞれの地域を拠点としました。

南部氏の一族

 南部氏が甲斐国から陸奥国の北部に勢力基盤を移していった過程については、いまだ不明確な点が多いようです。
 ただ、分散していた一族の中で、現在の青森県三戸町を中心に勢力を張った三戸南部氏や、八戸市を中心に勢力を張った八戸南部氏(根城南部氏ともいう)が主な存在だったことは確かなようです。
 当初は、八戸南部氏が一族の中心的存在だったようですが、南北朝の争乱の中で衰えたため、三戸南部氏が南部氏の宗家という立場になっていったようです。
 このような一族の変遷を経ながら、南北朝、室町、戦国を生き抜いていった南部氏ですが、ここに豊臣秀吉による天下統一事業という外圧が迫ってきます。秀吉による奥州仕置です。
 この外圧に接して、鎌倉時代以来命脈を保ってきた東北地方の多くの旧勢力は滅亡してしまいますが、南部氏は小田原参陣を果たすことにより、生き延びることができました
 この盛岡南部氏による小田原参陣は八戸南部氏の地位に大きな影響を与えました。参陣を果たした盛岡南部氏が秀吉から独立大名と認められる替わりに、八戸南部氏が独立した存在ではなくなったのです。八戸南部氏は、この時から正式に、盛岡南部氏の家臣という立場になりました。ただし、家臣という立場になりましたが、八戸の領地を維持し、一族として、盛岡南部氏を支える存在となりました。
 この頃、三戸南部氏は支配下の反乱に苦しみながらも、支配地を南に拡大していきました。その拡大に伴い、拠点を三戸から現在の盛岡の地に移します。これが盛岡南部氏で、以後、明治維新までの期間、盛岡藩として存続します。

寛文4(1664)年盛岡藩主南部重直が跡継ぎが 定まらないまま死去しました。
同年、 幕府が盛岡南部藩領10万石を分割して、あらためて 8万石を重直の弟重信に与えて盛岡藩を後継させ、 2万石をその下の弟直房に与えて八戸藩とする裁定 を下しました。
新たに誕生した八戸藩は明治4(1871)年の廃藩置県まで 続きました。

 江戸時代、盛岡南部氏は、現在の青森県三八上下地方、秋田県東北部、岩手県北部から中部の地域という広大な地域を支配する領主でした。
 その領地の広大さは「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われました。この言葉は、空に掛かっている月が三日月の頃に南部領に入ると、連日歩いて領土を通り抜ける頃には満月になるまでの日数がかかるということを表しています。三日月が満月になるまでは11日ほどかかります。江戸時代、成人男性が徒歩で歩く距離は1日30~40㎞程度だったそうですから、40㎞だとして440㎞となります。つまり、広大な南部領に入って抜けるまでには、11日間かけて440㎞を走破する必要があったということになります。

南部氏は、常紋を「丸に対鶴」としていましたが、
南部氏は、名門である甲斐武田氏に連なることを示す意味で裏紋(替紋ともいいます)に武田菱を使用していました。
南部氏初代の南部光行は、甲斐武田氏家紋である「四つ割菱」を用いていました

八戸南部氏の遠野移封

 この広大な領地を支配する盛岡南部氏(表高10万石、後、20万石)でしたが、豊臣秀吉により現在の宮城県地域を支配するようになった伊達氏の仙台藩が、岩手県南部にまで勢力を拡大してくると、その圧力に苦しむようになりました。

小友金山の存在

 盛岡南部氏と伊達氏は、領地の境界地域でぶつかりますが、その係争地の一つが、現在の遠野市(盛岡南部氏の領地)と住田町(伊達氏の領地)の
境界でした。係争理由の中で最大だったことは、江戸時代初期、現在の遠野市小友町に金山があったことでした。つまり、金山の採掘を巡って両者が争ったのです。

小友金山の一つ小友蟹沢(かんさ)金山は享保2(1717)年に発掘されました。
この金山跡から湧き出ているのがこの黄金の滴の水で、遠野市水源の中で唯一無菌 の天然水です。無殺菌のため、利用は自己責任でとなります。ご注意ください。

 また、豊臣秀吉による奥州仕置までの遠野十二郷は、源頼朝による奥州合戦で戦功のあった阿曾沼氏が統治してきましたが、小田原参陣をしなかったことをきっかけに阿曾沼氏は滅亡しました。以降、遠野の地は、盛岡南部氏が代官を置いて支配しましたが、阿曾沼氏の旧臣がなかなか服せず、治安が悪い状態で、それに伊達氏が乗じる状況でした。

阿曾沼氏縁の諏訪神社

 このような状況を打開するためということもあり、盛岡南部氏は、当時、八戸を支配していた八戸南部氏を遠野に移封しました。八戸南部氏は南北朝以来の領地八戸を去って遠野の地に移ります。

「女大名」清心尼

 移封前の八戸南部氏は男性の領主(八戸南部氏第20代直政)とその嫡男が相次いで亡くなったことから、直政の未亡人であった「ねね」が当主の地位(八戸南部氏第21代)にありました。江戸時代、女性が大名家の当主の地位に就くことは極めて異例なことでした。ねねはその後剃髪し、清心尼(せいしんに)と称します。ただし、元和7(1621)年に清心尼は一族の男子である直義を婿養子とし八戸南部氏第22代当主とします。

 盛岡南部氏の命により、直義をはじめとした一族は遠野に移ります。寛永4(1627)年のことでした。これが遠野南部氏です。

 移封された後、鍋倉山にあった阿曽沼氏の旧城・横田城を修築して居城とし、名も鍋倉城と改め、城下町も整備しました。

鍋倉城三の丸址
ここには、遠野南部氏の重臣中舘氏、福田氏の各屋敷が構えられていたいました。
三の丸から遠野市街地を望みます。
三の丸から本丸を目指します。
鍋倉城本丸

清心尼の統治

 なお、遠野に移ってからは、当主である直義が盛岡城常駐となったため、遠野には家老が置かれました。このため、遠野の地は、実質的に清心尼によって治められたといわれています。
 清心尼は八戸で14年、隠居してからは遠野で17年、実質的に31年もの間、当主を務め、59歳で生涯を終えましたが、清心尼が中心となって、荒廃した領内の治安回復や町づくりに努力し、伊達氏との境界の確定や、金山紛争を解決したことで、遠野統治の基盤が作られました。
 このことから、清心尼は今でも遠野の人々に敬愛されています。

清心尼の墓跡。顕彰碑が残されています。「遠野遺産」指定の地域遺産です。


 江戸時代の遠野南部氏は、10代、約240年間にわたり遠野の地を統治します。
 また、江戸時代の遠野南部氏は、代々、盛岡藩家老首座、盛岡城代家老を勤め、別格諸家との位置付けで南部氏宗家と同等の家格で遇されました

 明治維新後の明治2(1869)年、鍋倉城は廃城となり、建物は取り壊されましたが、本丸、二の丸、空堀跡が遺構として現存し、三の丸は公園として整備されています。

遠野高校は、ここにあります。

 明治時代になると、盛岡藩主だった盛岡南部氏華族に列せられ、明治17(1884)年の華族令施行により伯爵とされました。
 なお、遠野南部氏は明治30(1897)年、特旨により男爵となりました。
 遠野南部氏の男爵叙爵は、遠野高校の淵源である岩手県立遠野中学校が誕生する4年前の出来事でした。


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