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山口デンデラ野

 遠野の郷にも、棄老伝説があります。いわゆる姥捨て伝説です。
 この棄老とは、昔、口減らしのために、老人を山中などに捨てたという習俗のことです。
 その棄老の場がデンデラ野です。


なぜ、デンデラというのかは分かりませんが、
山梨県丹波山村に、峠の尾根道を、
天平と書いてデンデエロと読む土地があります。

「遠野物語」のデンデラ野

 この棄老について、「遠野物語」に記述があります。

 山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野という地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの習いありき。老人はいたずらに死んでしまうこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり。そのために今も山口土淵辺にては朝に野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり。
○ダンノハナは壇の塙なるべし。すなわち丘の上にて塚を築きたる場所ならん。境の神を祭るための塚なりと信ず。蓮台野もこの類なるべきこと『石神問答』中に言いえり。

「遠野物語」第111話

 「遠野物語」第111話に出てくる蓮台野(「れんだいの」と読みます)がデンデラ野です。遠野では、デンデラ野とかデンデーラ野といいます。

土淵村高室(現在の遠野市土淵町山口)の山口デンデラ野
「ハカダチ」「ハカアガリ」の「ハカ=墓」という印象になります。
確かに、この場合の「ハカ」には墓という意味合いがあるという説もありますが、
「ハカが行く」の「ハカ」だという説もあります。
この場合の「ハカ」 は、近畿、九州、北陸、関東、東北、北海道などで
広く使われている方言であり、
古くは米などの収穫予想量を言ったもので漢字では「捗、計、量」が当てられます。
「ハカが行く」とは、「仕事が順調に進捗する」という意味になります。
この意味の「ハカ」から、「仕事がはかどる」や、
物の量や大きさを数値化する「計る、測る」、
計画を立てるという意味の「図る」なども生まれたようです。
第111話の「ハカ」が「ハカが行くのハカ」だとしたら、
「ハカダチ」は単に仕事に出かけること、
「ハカアガリ」は仕事を切り上げることという意味になると思います。

 物語での表記がデンデラ野でないことについては、柳田國男の当て字ではないかと言われています。柳田が、佐々木喜善の語りを、京都近郊の葬送の地である蓮台野と聞き取り、迷わずにこの漢字を当てたのかもしれません。

山口デンデラ野。
デンデラ野跡地の野原には、住居のレプリカが建っています。

「遠野物語拾遺」のデンデラ野

 青笹村の字糠前と字善応寺との境あたりをデンデラ野またはデンデエラ野と呼んでいる。ここの雑木林の中には十王堂があって、昔この堂が野火で焼けた時十王様の像は飛び出して近くの木の枝に避難されたが、それでも火の勢いが強かったために焼けこげてる。堂の別当はすぐ近所の佐々木喜平どんの家でやっているが、村じゅうに死ぬ人がある時は、あらかじめこの家にシルマシがあるという。すなわち死ぬのが男ならば、デンデラ野を夜なかに馬を引いて山歌を歌ったり、または馬の鳴輪の音をさせて通る。女ならば平生歌っていた歌を小声で吟じたり、啜り泣きをしたり、あるいは高声に話をしたりなどしてここを通り過ぎ、やがてその声は戦争場の辺まで行ってやむ。またある女の死んだ時には臼を搗く音をさせたそうである。こうして夜更けにデンデラ野を通った人があると、喜平どんの家では、ああ今度は何某が死ぬぞなどと言っているうちに、間もなくその人が死ぬのだといわれている。

「遠野物語拾遺」第266話

 「遠野物語拾遺」第266話を読むと、棄老の地であるデンデラ野は、遠野の郷の人々にとって、単なる野原ではなく、此の世の延長上にあるあの世又は異界への入口でもあったようです。

山口デンデラ野の住居のレプリカは「あがりの家」という名称のようです。
なぜか、この画像だけにオーブが写り込みました。

 昔は老人が六十になると、デンデラ野に棄てられたものだという。青笹村のデンデラ野は、上郷村、青笹村の全体と、土淵村の似田貝、足洗川、石田、土淵等の部落の老人たちが追い放たれた処と伝えられ、方々の村のデンデラ野にも皆それぞれの範囲がきまっていたようである。土淵村字高室にもデンデラ野と呼ばれている処があるが、ここは、栃内、山崎、火石、和野、久手、角城、林崎、柏崎、水内、山口、田尻、大洞、丸古立などの諸部落から老人を棄てたところだと語り伝えている。

「遠野物語拾遺」第268話

 また、デンデラ野は複数あったようです。
 それぞれのデンデラ野にはいわゆるテリトリーがあって、棄老する村・字が決まっていたようです。そのテリトリーは、半径約1.5kmの円内に収まるようです。

山口デンデラ野。
現在、山口デンデラ野の麓には水田が広がっています。
山口デンデラ野の麓を山口川が流れています。
山口川は、猿ヶ石川に流れ込んでいる小烏瀬川の支流です。
この橋を、高室橋といいます。
高室橋には、いわゆる「姥捨て」の様子を表したレリーフがあります。

各地に残る棄老伝説

 棄老に係る伝説は、日本各地にあります。
 この伝説の中で最も古いものは「大和物語」156段の伯母を捨てる話「姨捨」だと思われます。この物語は平安時代中期の10世紀半ば頃に成立した作者不詳の歌物語です。
 育ててくれた親などを捨てる話というのは、あまり心穏やかにとはなりません。そのためか、棄老伝説には大きく2つの定型的な筋書きが見られ、どちらの筋書きも結局棄老を止めるという落ちになるようです。「大和物語」の姨捨も、両親のかわりに育ててくれた伯母をいったん山に捨てる男の話ですが、男は結局、伯母を家に連れ帰ります。ちなみに「姨」は母方のおばという意味で「おば」とか「い」と読みます。そして、多くの棄老伝説は「昔はあったが、今はない」という形で落ち着くようです。

山口デンデラ野。
あがりの家から望む人里。

 本当に棄老はあったのか、という問題に対して民俗学では「なかった」という説が強いようです。
 しかし、日本各地に棄老伝説があることや、歴史を振り返った時、度重なる飢饉の歴史があることを確認すると、棄老は、いわゆる口減らしのためにあっただろうと思います。
 ちなみに、この棄老は日本だけの話ではないようです。ペロー童話集やグリム童話に収録されている有名な「赤ずきん」の話も棄老を示唆しているのではないかと言われています。
 ちなみに、最初に17世紀末にフランスで出版されたペロー童話集に掲載された「赤ずきん」ですが、悪者は狼です。それでは、どうして狼が悪者なのかというと、その背景には、14世紀初頭から19世紀後半までの500年間以上の期間、地球の気候が、小氷期(Little ice age)といわれる寒冷期に入ったことがあると考えられています。15世紀に入ると地球規模の寒冷化が、太陽活動の低下もあって進みました。ヨーロッパ中部の高地では、森林地帯が急速に後退しました。森林地帯の急速な後退に伴って、飢えた狼が、山を下り、ロシアのスモレンスクからドーバー海峡を越えたイングランドまでの広い地域で、家畜を襲う姿が目撃されるようになりましたこの状況が、悪者としての狼像の原型になったと考えられています。
 このように悪者像としての狼のイメージですが、一般的に野生の狼は賢く警戒心が強く、人間を警戒し特殊な場合以外にヒトを襲うことはないようです。狼が山野に生息している場合でも、ヒトはたまに遠くにそれらしき姿を見るくらいで、突然ヒトと出くわしても、狼の方が静かに立ち去るといいいます。突然出くわしたらヒトを襲うことが多い、熊や猪とは異なります。

 しかし、牧畜民や遊牧民にとっては、家畜を襲う狼は極めて警戒すべき野獣でした。特に、キリスト教世界では、羊や羊飼いが聖的存在でしたので、牧羊を襲う狼は嫌悪されたようです。山を下りてきた飢えた狼が羊や家畜を襲う状況は大きなインパクトがあり、やがて悪魔に比されるような存在とされたのではないかと考えられています。
 なお、「赤ずきん」の類話は、ユーラシア大陸各地に残されています。 

赤ずきんのおばあちゃんは、
どうして、森(又は森の向こう)で一人暮らしをしていたのでしょうか?
どうして、赤ずきんは、おばあちゃんの家を訪ねたのでしょうか?

 なお、遠野の郷に伝わるデンデラ野の話は、多くの棄老伝説に備わっている「結局棄老は止めました」「あくまでも昔の話ですよ」という形式と無縁です。デンデラ野の話にはリアリズムが感じられます。
 デンデラ野の話は、小氷期の中、高冷地で古来低温寡照に見舞われることが多く何度も飢饉の襲来と戦ってきた、遠野の郷の人々が苦闘する姿を表しているのではないかと思います。

「遠野物語」と「遠野物語拾遺」

 ところで、「遠野物語」は明治43(1910)年に、当時、農商務省の官僚だった柳田國男によって自費出版されたものです。本校の淵源である岩手県立遠野中学校が誕生(明治34〔1901〕年)した9年後の出来事でした。上閉伊郡土淵村(現在の遠野市土淵町)出身の佐々木喜善が、子供の頃から聞かされたり土地に伝わる話を柳田に語り聞かせた物を、柳田が聞き取り、文語体に改め自費出版したものです。
 なお、「遠野物語拾遺」は、昭和10(1935)年に再版された「遠野物語」の増補という形で刊行されたものです。「遠野物語」の続編を出版しようとした柳田國男が、佐々木喜善から資料を集めたものの、佐々木の原稿の量が膨大であったことから、物語の選択に時間をとられ出版が遅れたという逸話があります。その間に佐々木喜善が他界(昭和8〔1933〕年他界)したため、一冊の本ではなく「遠野物語」の第二部という形になったもののようです。「遠野物語拾遺」の基になったものが、佐々木の口述ではなく、佐々木が書いた原稿だったことから、デンデラ野のことを「蓮台野」ではなく、デンデラ野と表記したのだと思われます。


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