山口デンデラ野
遠野の郷にも、棄老伝説があります。いわゆる姥捨て伝説です。
この棄老とは、昔、口減らしのために、老人を山中などに捨てたという習俗のことです。
その棄老の場がデンデラ野です。
「遠野物語」のデンデラ野
この棄老について、「遠野物語」に記述があります。
「遠野物語」第111話に出てくる蓮台野(「れんだいの」と読みます)がデンデラ野です。遠野では、デンデラ野とかデンデーラ野といいます。
物語での表記がデンデラ野でないことについては、柳田國男の当て字ではないかと言われています。柳田が、佐々木喜善の語りを、京都近郊の葬送の地である蓮台野と聞き取り、迷わずにこの漢字を当てたのかもしれません。
「遠野物語拾遺」のデンデラ野
「遠野物語拾遺」第266話を読むと、棄老の地であるデンデラ野は、遠野の郷の人々にとって、単なる野原ではなく、此の世の延長上にあるあの世又は異界への入口でもあったようです。
また、デンデラ野は複数あったようです。
それぞれのデンデラ野にはいわゆるテリトリーがあって、棄老する村・字が決まっていたようです。そのテリトリーは、半径約1.5kmの円内に収まるようです。
各地に残る棄老伝説
棄老に係る伝説は、日本各地にあります。
この伝説の中で最も古いものは「大和物語」156段の伯母を捨てる話「姨捨」だと思われます。この物語は平安時代中期の10世紀半ば頃に成立した作者不詳の歌物語です。
育ててくれた親などを捨てる話というのは、あまり心穏やかにとはなりません。そのためか、棄老伝説には大きく2つの定型的な筋書きが見られ、どちらの筋書きも結局棄老を止めるという落ちになるようです。「大和物語」の姨捨も、両親のかわりに育ててくれた伯母をいったん山に捨てる男の話ですが、男は結局、伯母を家に連れ帰ります。ちなみに「姨」は母方のおばという意味で「おば」とか「い」と読みます。そして、多くの棄老伝説は「昔はあったが、今はない」という形で落ち着くようです。
本当に棄老はあったのか、という問題に対して民俗学では「なかった」という説が強いようです。
しかし、日本各地に棄老伝説があることや、歴史を振り返った時、度重なる飢饉の歴史があることを確認すると、棄老は、いわゆる口減らしのためにあっただろうと思います。
ちなみに、この棄老は日本だけの話ではないようです。ペロー童話集やグリム童話に収録されている有名な「赤ずきん」の話も棄老を示唆しているのではないかと言われています。
ちなみに、最初に17世紀末にフランスで出版されたペロー童話集に掲載された「赤ずきん」ですが、悪者は狼です。それでは、どうして狼が悪者なのかというと、その背景には、14世紀初頭から19世紀後半までの500年間以上の期間、地球の気候が、小氷期(Little ice age)といわれる寒冷期に入ったことがあると考えられています。15世紀に入ると、地球規模の寒冷化が、太陽活動の低下もあって進みました。ヨーロッパ中部の高地では、森林地帯が急速に後退しました。森林地帯の急速な後退に伴って、飢えた狼が、山を下り、ロシアのスモレンスクからドーバー海峡を越えたイングランドまでの広い地域で、家畜を襲う姿が目撃されるようになりました。この状況が、悪者としての狼像の原型になったと考えられています。
このように悪者像としての狼のイメージですが、一般的に野生の狼は賢く警戒心が強く、人間を警戒し特殊な場合以外にヒトを襲うことはないようです。狼が山野に生息している場合でも、ヒトはたまに遠くにそれらしき姿を見るくらいで、突然ヒトと出くわしても、狼の方が静かに立ち去るといいいます。突然出くわしたらヒトを襲うことが多い、熊や猪とは異なります。
しかし、牧畜民や遊牧民にとっては、家畜を襲う狼は極めて警戒すべき野獣でした。特に、キリスト教世界では、羊や羊飼いが聖的存在でしたので、牧羊を襲う狼は嫌悪されたようです。山を下りてきた飢えた狼が羊や家畜を襲う状況は大きなインパクトがあり、やがて悪魔に比されるような存在とされたのではないかと考えられています。
なお、「赤ずきん」の類話は、ユーラシア大陸各地に残されています。
なお、遠野の郷に伝わるデンデラ野の話は、多くの棄老伝説に備わっている「結局棄老は止めました」「あくまでも昔の話ですよ」という形式と無縁です。デンデラ野の話にはリアリズムが感じられます。
デンデラ野の話は、小氷期の中、高冷地で古来低温寡照に見舞われることが多く何度も飢饉の襲来と戦ってきた、遠野の郷の人々が苦闘する姿を表しているのではないかと思います。
「遠野物語」と「遠野物語拾遺」
ところで、「遠野物語」は明治43(1910)年に、当時、農商務省の官僚だった柳田國男によって自費出版されたものです。本校の淵源である岩手県立遠野中学校が誕生(明治34〔1901〕年)した9年後の出来事でした。上閉伊郡土淵村(現在の遠野市土淵町)出身の佐々木喜善が、子供の頃から聞かされたり土地に伝わる話を柳田に語り聞かせた物を、柳田が聞き取り、文語体に改め自費出版したものです。
なお、「遠野物語拾遺」は、昭和10(1935)年に再版された「遠野物語」の増補という形で刊行されたものです。「遠野物語」の続編を出版しようとした柳田國男が、佐々木喜善から資料を集めたものの、佐々木の原稿の量が膨大であったことから、物語の選択に時間をとられ出版が遅れたという逸話があります。その間に佐々木喜善が他界(昭和8〔1933〕年他界)したため、一冊の本ではなく「遠野物語」の第二部という形になったもののようです。「遠野物語拾遺」の基になったものが、佐々木の口述ではなく、佐々木が書いた原稿だったことから、デンデラ野のことを「蓮台野」ではなく、デンデラ野と表記したのだと思われます。