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五百羅漢像

 遠野市綾織町新里に残る五百羅漢像は、大慈寺19世義山和尚が、遠野地方の度重なる凶作で餓死した人達を供養するため、18世紀末の天明年間(1781年~89年)に、読経しながら大小500の花崗岩の自然石に羅漢像を刻んだものと伝えられています。


五百羅漢像は、愛宕神社の参道入り口から300m。
大小の自然石が横たわっています。

✿南部領と飢饉の歴史

 江戸時代の遠野の郷は、盛岡南部氏の所領の一部でした。盛岡南部氏の所領のことは盛岡藩とよんだりします。
 そして、当時の遠野の郷は、盛岡藩の支藩として、盛岡藩家老首座の地位にあった遠野南部氏が統治していました。
 なお、用語がごちゃごちゃしますが、以下、遠野の郷を含めた盛岡南部氏の所領のことを「南部領」と記します。
 また、江戸時代の遠野南部氏のことや、盛岡南部氏を含めた南部氏という武士のことについては、以下の記事をご覧ください。↓

 さて、北東北の太平洋沿岸部は、夏季に太平洋から吹きつけるヤマセと呼ばれる冷たくて湿った北東風により、しばしば冷夏・冷害による被害を被ります。このような冷夏を、オホーツク海高気圧による第1種冷夏といいます。
 沿岸部でヤマセの襲来を受けると、冷蔵庫の冷気がいきなり吹きつけて来たといった感じになる思います。

羅漢とは、arhat(サンスクリット語で「アルハット」と読みます) の音訳
である「阿羅漢」の略です。
仏教用語であり、
小乗仏教において「最高の悟りに達した聖者」のことをいいます。
「薬屋のひとりごと」の漢羅漢のことではありません。

 江戸時代、北東北の太平洋沿岸部を含む地域に広がっていた南部領は、この第1種冷夏の頻繁な発生によって、食糧問題において地理的に大きなハンディキャップを負っていました。

なぜ、「五百」羅漢なのか。
もともと五百の羅漢とは、仏典の第1回結集に参加した釈迦の500人の弟子や、
第4回結集に参加した500人の聖者のことを指していました。

 この南部領では、大きく分けて4回の大飢饉に見舞われました。南部領4大飢饉です。元禄の大飢饉(1691~95年)、宝暦の大飢饉(1753~57年)、天明の飢饉(1782~87年)、天保の飢饉(1833~39年)です。

結集(「けつじゅう」と読みます)とは、
釈迦の死(諸説あり、紀元前6世紀半ば~前4世紀後半)後、
教団の内部に意見の違いがあらわれたため、
仏祖の教えを正しく後世に伝える必要が生じ、
伝えられた説法を整理して統一を図る必要が生じたことから行われた
仏典の編集作業のことをいいます。
第1回は釈迦没後翌年、第2回は没後約100年後、
第3回はマウルヤ朝アショーカ王時代(紀元前3世紀後半)、
第4回はクシャナ朝カニシカ王時代(紀元後2世紀)に行われました。

✬遠野の郷を襲った宝暦の大飢饉

 遠野の地に最も大きな被害を出したのは、宝暦の大飢饉でした。
 18世紀半ばの宝暦年代の遠野は、順調な発展を遂げており、16世紀まで遠野の地を統治していた阿曾沼氏の統治時代に比べて、人口は約2倍になり、当時の人口は1万9千人余りでした。
 宝暦5(1755)年に襲った未曾有の大凶作を中心とした被害により、遠野の人口はその約4分の1を失いました。宝暦5年の遠野の地の冷夏について「無惨にも8月16日と17日(グレゴリウス暦で9月21日と22日)の両日、2日続いてまるで雪のように真白く霜が降りた」と伝えられています。遠野では「猿ヶ石川にわが子を投げ入れた」という悲惨な話も伝えられています。
 当時の南部領の人口は29万2千人余りで、大飢饉により4万9千人余りが餓死し疫病死を加えると6万人超の死者が出ました。
 この宝暦年代ですが、宝暦元年から14年の内、2年、4年の凶作・不作の後を受けての5年の大飢饉、6年、7年の飢饉と、飢饉が連続した年代でした。

五百羅漢像に行く際は、季節に注意しましょう。
本当に、熊注意です!

✬天明の大飢饉と遠野の郷

 宝暦5年の大凶作から28年後の天明3(1783)年、南部領4大飢饉最大の被害をもたらした大凶作が発生しました。天明の大飢饉です。
 南部領では翌春までに餓死者4万人余り、疫病死を加えると6万4千人超が死亡しました。弘前の津軽領では餓死者8万人超、南部藩の支藩である八戸南部領での餓死者3万人超、仙台の伊達領での餓死者10万人と伝わっています。この大飢饉は、江戸時代の日本に最大の被害をもたらしたものでした。当時の餓死者数については、取り上げる時期の違いも含めて様々な数値があります。いずれの数値を取り上げるにせよ、特に当時の東北地方太平洋側と関東地方で人口減少率1割超という強烈な被害を出したものでした。

刻まれた羅漢像の姿が次第に薄れていきます。

 天明の大飢饉での遠野の状況は、凶作であった稲作はともかく、畑作、特に稗作は宝暦期より良かったようです。また、山が近く、しかも奥が深いので、農民や町人だけでなく武家の名のある人達まで一様に、夜明けを待って山に出かけて、ワラビの根や葛の根、山芋、トコロ、ウルイ、牛蒡の葉など食べられる物の全てを採って糊口を凌いだと伝わっています。これらにより、宝暦期の最悪の状態に比べれば幾分か軽い被害で済んだようです。
 そうはいっても、遠野においても、この天明の大飢饉で大きな被害が出て、人々は宝暦の大飢饉同様の苦しみを受けたようです。

現存する羅漢像は4分の3ほどです。

✬五百羅漢像に託された祈り

 このような苦しみの中、義山和尚は500の羅漢像を刻んだのです。
 餓死者を供養するために、一体一体、羅漢像を刻んだ義山和尚の祈りとはどのようなものだったでしょうか。この地に立つと、その祈りに自然と思いを馳せます。
 今日、羅漢像は約380体が苔むした姿で現存していて、苦闘する当時の農民の姿を伝えています

✿小氷期と飢饉の襲来

 14世紀初頭から19世紀後半までの500年間以上の期間、地球の気候は、小氷期(Little ice age)と呼ばれる気温の低い状態でした。

14世紀初頭である1315年、歴史上、
大飢饉(the Great Famine)と語られる凶作がヨーロッパに到来しました。
飢饉の中で農村では、口減らしのための子捨てがヨーロッパ全域で行われました。
グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」は、
継母(原典では実母)に捨てられた兄妹が、
魔女に捕まったものの隙を見て魔女を殺し宝石を持って実家に帰る
という物語です。
この筋立てを生んだ時代背景には、
当時の大飢饉での農村の惨状があったと考えられています。

 つまり、日本では鎌倉時代末頃から江戸時代の幕末頃までが、小氷期に相当します。特に、日本では江戸時代前期である17世紀後半から気候の寒冷化傾向が顕著になったため、厳しい飢饉が何度も到来しました。
 ただし、小氷期の時期については諸説ありますし、温暖期に比べて寒冷期の気候は極端なものになる傾向があるようですから、小氷期の時期にも暑い時期はありましたし、世界を見渡すと、同時期であっても地域によって細かな状況が違っている場合があるようです。

ロンドンのウェストミンスター宮殿テムズ川
小氷期中期のマウンダー極小期である17世紀テムズ川が2カ月間、
約28cmの厚さの氷で凍結したという記録があります。

 小氷期の原因については、その全てが判明しているわけではありません。
 ただ、小氷期の中期にあたる1650~1710年の時期と、後期の1800年代の前半は、太陽活動の活発さの指標である太陽黒点数が著しく減少した期間にあたっていて、それぞれマウンダー極小期ダルトン極小期と呼ばれています。この太陽黒点数が著しく減少した時期は太陽活動が不活発な時期であたっため、日射量が減衰した時期でした。
 また、この時期は世界的に活発な火山噴火があった時期でもありました。
 そのため、小氷期の原因には、日射量が減衰や火山噴火により放出された大量の火山灰などによる日傘効果などがあったと思われます。
 このような小氷期という厳しい環境の下で、何度も飢饉が発生したのです。

✿遠野について

✬土地の特徴

 小氷期に加えて、遠野の地は、標高250mから300mほどの高冷地で、周囲を700mから1,000mほどの山に囲まれた盆地です。そのため、三陸海岸の暖気が、盆地東方の六角牛山や東南方の五葉山の山なみに遮られるとともに、北方から冷涼な早池峰おろしが吹き荒れるので、古来低温寡照に見舞われることが多い土地でした。古来遠野の農業史は凶作の歴史でもありました。

 したがって、餓死者が出たことも多く、いわゆる口減らしのため、子供殺しまで行われた記録や、労働に耐えなくなった老人を捨てる「でんでら野」の言い伝えも残されています。

山口でんでら野

✬「遠野物語」成立の背景

 遠野といえば「遠野物語」ですが、この物語集が成立した背景には、遠野の地が三陸沿岸部と旧奥州街道が通る内陸部の中間部にあたり、古来多くの人馬が集散する中継商業の要地であったことと、凶作、飢饉との苦闘の歴史があります。

 ちなみに、「遠野物語」には、飢饉の影も記されています。

 馬追い鳥は時鳥に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の綱のようなる縞あり。胸のあたりにクツゴコ(口籠)のようなるかたあり。これも或る長者が家の奉公人、山へ馬を放しに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通しこれを求めあるきしがついにこの鳥となる。アーホー、アーホーと啼くはこの地方にて野におる馬を追う声なり。年により馬追い鳥里に来て啼くことあるは飢饉の前兆なり。深山には常に住みて啼く声を聞くなり。
○クツゴコは馬の口に嵌める網の袋なり。

「遠野物語」第52話


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