開校後間も無く勃発した、学校存続の危機(校舎焼失、学校移転の危機)
遠野高校の淵源は、明治34(1901)年5月1日に授業が開始された、男子校「岩手県立遠野中学校」という旧制中学校です。
実は、創立後6年になろうとする明治40(1907)年3月24日、理科室付近からの出火により開校当時の校舎がほぼ全焼する悲劇に見舞われました。
この校舎は「開校式で『贅沢過ぎる』と文部省の役人から言われた」と、遠野の人たちが自慢していたほど豪壮な建物でしたが、焼失しました。
当然、この焼失により校舎再建や、校舎が無い中での教育活動が問題になりましたが、それに加えて、遠野中学校が花巻に移転するという、遠野の教育界にとって、そして現在の遠野高校にとっても重大な問題が浮上することになりました。
遠野中学校は、開校第1回の生徒募集こそ、扱いに困るほど多数の入学志願者が全国から集まり106名という多くの入学生につながったのですが、第2回以降の入学志願者は、100名募集のところにその半分の50名の応募も難しいほど激減していました。
入学志願者減少の大きな要因は、当時の打ち続く農村不況と地域経済の不振にありました。明治27(1894)年から28(1895)年の日清戦争から明治37(1904)年から38(1905)年の日露戦争までの間に、日本は大きく変化しました。この変化は、遠野の郷も同様でした。この変化の内容は、貨幣経済の発達と、それに伴う商品主義経済の浸透で、一般世帯の家計は年々現金支出が増加しました。農業でも、魚粕や豆粕などの使用が一般的になり、現金支出は増えましたが、一方で、安価な外国産米の輸入が続き、この輸入に引っ張られて農産物価格が低迷していきました。これに追い打ちをかけたのが、不作、凶作で、農作物の生産に依存する地域経済は深刻な低迷の中にあったのです。
当時、校長以下職員は手分けして勧誘して歩いたのですが、それでも50名以上になることは少なかったのです。
加えて、当時は学業成績の悪い者は遠慮なく落第させたので、そのために中途退学する者も少なくなく、結果、17名しか卒業生がいないという第4回卒業式のようなこともあったのです。
そこで、「そんな学習志望者のいない所に、多大な経費をかけて学校を置いておくことは無意味である」「それよりも、進学志望者が多くて困っている花巻に移転すべきだ」と、県の各方面から多くの意見が出たのです。花巻地区選出の県会議員からは「どうせ校舎を再建築しなければならないなら、花巻に建築した方が将来の利益である」という主張もあがりました。
県会での政治的駆け引きの中で、遠野にとって幸いだったのは、気仙地区選出の議員で当時の県会議長が、「すでに花巻には県立女学校があり、かつ盛岡へ汽車で通学ができる。これに反して気仙には県立学校は何もないから、遠野中学校を移転するなら、ぜひ、気仙郡にせよ」と主張したことでした。この主張は、遠野にとっては大きな危機だったのですが、結果的に遠野における「移転反対運動」の高揚につながり、遠野中学校の移転はなくなりました。
このような危機を経て、焼失された校舎は再建されました。
再建された校舎、そして遠野中学校の存続は、遠野の人たちに強い感銘を与えました。