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物資集散地として繁栄した遠野(江戸時代から明治・大正中期)

柳田國男は「遠野物語」の序文に「遠野の城下はすなわち煙花の街なり。」と記しています。


🌸「永遠の日本のふるさと遠野」というイメージ🌸

 遠野の郷は「民話の里」といわれます。これは、明治43(1910)年に、当時、農商務省の官僚だった柳田國男により発表された「遠野物語」が影響しているためというのは言うまでもありません。遠野市は「永遠の日本のふるさと遠野」をキャッチフレーズとしています。
 「民話の里」や「永遠の日本のふるさと」からイメージされる遠野とは、「鄙びた郷」ではないでしょうか。

高清水高原展望台から遠野市街を望む(令和5年6月7日撮影)

 しかし、柳田國男は「遠野物語」の序文に「遠野の城下はすなわち煙花の街なり。」と記しています。「煙花の街」とは「華やかに賑わう街」という意味ですから、あれっ?と思うのではないでしょうか。

《略》昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻より十余里の路上には町場三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚だし。或いは新道なるが故に民居の来たり就ける者少なきか。遠野の城下はすなわち煙花の街なり。馬を駅亭の主人に借りて独り郊外の村々を巡りたり。その馬は黔き海草をもって作りたる厚総を掛けたり。虻多きためなり。猿ヶ石の渓谷は土肥えてよく拓けたり。路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず。高処より展望すれば早稲まさに熟し晩稲は花盛りにて水はことごとく落ちて川にあり。《略》

「遠野物語」序文

🌸遠野城下は岩手県(旧盛岡藩)第2の経済の中心地🌸

 明治12(1879)年7月、岩手県は県内の市街地とその宿駅に一等から六等まで等級を付けました。一等級は盛岡市遠野は二等級に指定されました。当時、盛岡は盛岡に次ぐ賑わいを見せていたのです。 
 本校の淵源である岩手県立遠野中学校は、岩手県下で3番目の岩手県立中学校(旧制中学校)として、「遠野物語」が発表される9年前(明治34〔1901〕年)に誕生しました。

 県下で最初に誕生した県立中学校は盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)で、2番目が一関中学校(現在の一関第一高等学校)です。盛岡は、盛岡藩の城下町で明治維新後は岩手県の県都、一関は、江戸時代、仙台藩伊達氏の支藩で3万石の城主格である独立大名(一関藩田村氏)の城下町でした。当時の遠野も盛岡藩の支藩の城下町でしたが、それだけではなく、県内2番目の経済都市である豊かな街だったことが、中学校設立の背景にはありました

🌸物資の集散地として繁栄した遠野🌸

 江戸時代の遠野の郷は、盛岡藩と仙台藩(伊達氏の領地)との境に位置していたため政治的に重要な地域でした。また、北上高地のほぼ中央に位置しているため、閉伊海岸と盛岡を含む北上川流域の内陸部とを結ぶ交通上の要路であり、人の往来が盛んな物資の集散地として盛岡に次ぐ繁栄の地でしたが、「遠野市史」によると、その商業活動は、盛岡以上といわれていたそうです。

岩手県と遠野市の位置。遠野は北上高地の中央部に位置しています。
江戸時代の岩手県の領域には4つの藩がありました。

遠野の町は南北の川の落合にあり。以前は七七十里とて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より売買の貨物を聚め、その市の日は馬千匹、人千人の賑わしさなりき。《略》

「遠野物語」第2話

 遠野の町は、交換市場、中継商業による物資の集散地として発展しました。
 柳田國男が記した「七七十里(『なな(又はしち)しちじゅうり』と読みます。)」ですが、これは、遠野が鎌倉時代から「七七十里の中心の地」と称されていたことを表しています。最初の七とは、内陸方面の郡山(現在の紫波郡紫波町日詰)、花巻、岩谷堂(現在の奥州市江刺区岩谷堂)、沿岸方面の大槌、釜石、高田(現在の陸前高田市)、盛(現在の大船渡市盛)のことです。

この一里は小道即ち坂東道なり、一里が五丁又は六丁なり

遠野物語第2話初版本の注

 一般に、1里は半時(約1時間)歩いた距離で、メートル法に換算すると約4㎞と言われています。これは、豊臣秀吉の施策で約4㎞ごとに一里塚を設置したことからくるのですが、実際には同じ1里でも約4㎞ではない距離もありました。柳田は「一里が五丁又は六丁」と記しています。一丁(町)は約109 mで、五丁(町)だと1里は約545m、六丁(町)だと約654mで、どちらも約4㎞より短くなります。
 七つの地までは、いずれも小道七十里の距離があり、荷馬一日の行程とされていたのですが、1里=六丁(町)だとして計算すると約46㎞になります。だいたい現実を反映しています。
 なお、そのいずれの地にも半日行程の所に中継の場所があって、荷物を交換することになりますので栄えました。

 江戸時代、遠野の町には「六度市」と呼ばれる位置が立ちました。この市は1カ月に6度、1と6のつく日に開かれ、内陸部と沿岸部から荷が入り、そして出ていきました。この賑わいの様子を、江戸時代に遠野で作られた寺子屋の教科書「遠野状」には「一六の入荷は米千駄、肴千駄」「人馬群集すること蜂の巣を押す如く入込み」と記されています。

明治の遠野と街道。駄賃付けの道です。江戸時代からの状況が続きました。

🌸当時の中継商業を担う交通の主役は、駄賃付け🌸

 当時の交通の主役は、駄賃付けでした。
 「駄賃付け」とは、馬の背に荷をつけて運ぶことで、略して「だんこ」ともいいました。この駄賃付けがいつの頃から行われていたかは明らかではないようですが、これを本業とする人は、こうした荷を背負った駄馬を4、5頭から10頭も連ねて一人で馬を引き、荷を運びました。馬の首には鳴り輪と称する銅製の鈴を付けていました。これは狼などの野獣の襲撃を防ぐためのものとされています。
 明治の遠野では、労働者といえば日雇い、土工、大工などを除けば全て駄賃付け(又は「だんこ」)でした。当時の駄馬は、体躯が小さかったし力も弱かったのですが、おとなしく体躯が小さいことから女性や子供でも扱え、一人で何頭も引くことができるという便利さもありました。明治20(1887)年頃、遠野の町と宮守間を往復すると、馬一頭につき、50銭、5頭引くと2円50銭だったそうです。当時、白米の値は1升5銭くらいで、宿屋の泊り賃が25銭だったそうです。明治と現在との物価の比較は難しいところがあります。どのような物やサービスを基準にして比較するかということもありますし、明治のいつ頃と比較するかという問題もあります。このような困難さを念頭におきながら、明治時代の小学校教員の初任給を基準に考えてみると、当時の1円は現在の2万円程度と考えることができます。そうすると、駄賃付けで5頭引いて遠野と宮守間を往復すると5万円の賃料が手に入った計算になります。駄賃付けは、朝の暗いうちから夜遅くまで働く辛い仕事でしたが、収入は多いものでした。

駄賃付け(荷物をつけた駄馬)の模型(遠野市立博物館展示)

🌸明治・大正中期までの繁栄🌸

 遠野の町は、江戸時代にも中継商業で繁栄しました。ただ、江戸時代までの商業は、各藩とも厳重な規制を設けていましたので、商取り引きはあまり滑らかなものだとはいえませんでした。例えば、仙台藩では、主要物資、特に穀物の移出に規制を厳しく行っていました。
 明治になって以降、このような状況が大きく変化しました。藩境や規制が取り払われたので、明治10(1877)年頃から遠野の町では市日が栄えたのでした。

明治の遠野の町の様子(遠野市立博物館の展示)

 「遠野市史」によると、遠野の明治期以降の経済的繁栄期は、明治10(1877)年頃から岩手軽便鉄道が花巻~釜石の仙人峠間の65.4kmが全通する大正4(1915)年頃までの約40年間だったとのことです。この頃が、荷駄付けの全盛期でもありました。
 最も繁栄した時期は明治23(1890)年頃だったそうです。
 岩手軽便鉄道は、宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」のモデルとなった鉄道です。この鉄道によって結ばれたことで、花巻~遠野間は3時間で結ばれました。
 しかし、この鉄道によって、明治22(1889)年頃遠野に入った荷馬車と、同40(1907)年頃入った客馬車などは姿を消すことになり、江戸時代から続いた六度市は衰えていきました。
 また、花巻~仙人峠間で鉄道が全通した頃には、遠野にも乗用自動車が、次いで貨物自動車(トラック)が導入され普及すると、駄賃付けも次第に減り、太平洋戦争後には完全に見られなくなりました。

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