遠野で学んだ三浦命助(三閉伊一揆の指導者)
江戸時代の南部領(盛岡南部氏領)は、全国で最も百姓一揆が多発した地域でした。そして、幕末期である19世紀半ばには、三陸沿岸地域で日本最大級規模の百姓一揆が発生しました。この一揆を「三閉伊一揆」といいます。
「三閉伊一揆」は2回発生しました。第1次が弘化4(1847)年の冬に発生した「弘化一揆」で、第2次が、ペリーが浦賀に来航した年、嘉永6(1853)年の初夏に発生した「嘉永一揆」です。
遠野と三浦命助
嘉永一揆の指導者、三浦命助
この2つの一揆に関わったのが上閉伊郡栗林村(現在の釜石市栗林町)の三浦命助でした。特に、三浦命助は嘉永一揆の指導者の1人でした。
命助は、栗林村肝入りの分家の長男として生まれました。肝入りは東北・北陸地方で使われた語で、江戸時代の村役人の名称です。概ね関西では庄屋、関東では名主と呼ばれたものです。
三浦命助が学んだ遠野
命助は、幼少の頃から学問を好んだと伝わっています。やがて、遠野の町で学ぶ機会を持ちました。
栗林村は、栗林川の水流に沿った中山間地にあります。この村の命助の生家の辺りから遠野城下までは、笛吹峠を越えて、片道30km余りあります。命助は、師匠とした小沼八郎兵衛が開設していた寺子屋で、読み・書き・そろばんの手習いだけでなく、四書・五経まで修めたと伝わっています。いつから、どれくらいの期間学んだかについては不明ですが、おそらく10歳の前から手習いを始め、数年間にわたっただろうと考えられます。命助は、やがて生家を離れて17歳からの3年間、秋田藩の院内銀山で坑夫として働いていますから、それ以前の時期のことになります。
住み込みだったのかどうか不明ですが、片道30km余りの道を毎日往復したわけではないでしょう。どのような頻度で栗林村から寺子屋まで通ったのか興味があるところです。
難所「笛吹峠」
繰り返しになりますが、距離だけではな標高は867 mの笛吹峠を越えなければなりませんから、大変だったと思います。
笛吹峠は、岩手県道35号釜石遠野線の峠です。
「遠野物語拾遺」第2話には、笛吹峠の名称の由来が記されています。
また、「遠野物語」第5話にも、笛吹峠について記されています。
なお、「上閉伊郡志」には、「笛吹」は「吹雪」が転訛したものだとありますが、吹雪に見舞われて方角が分からなくなる危険な峠であっても、山中で必ず山男山女に出会う不気味な峠であっても、どちらであっても旅人にとって笛吹峠が難所であったことに変わりはないでしょう。
遠野は寺子屋の町
遠野の町は、地の利を生かして、中世の阿曾沼氏の時代から中継商業で繁栄しました。
そのような背景もあって、特に江戸時代末期、遠野城下には、漢学・儒学の私塾が多く開設された他、寺子屋も多く開設され、遠野南部家の家士、庶民問わず郷童の教育にあたっていました。
この「教学の地、遠野」には、命助のような他郷の人達も集まってきたのです。
江戸時代末期の遠野の郷は、特に三陸沿岸地域の人々にとって、教育の灯が灯る街でした。
三浦命助の生業
栗林村は、四方を山に囲まれ、栗林川の水流に沿って開発されたわずかな耕地が田畑とされた、耕地に恵まれない土地でした。このような地理的環境は、沈水海岸であるリアス海岸が連なる三陸沿岸地域の特徴で、農業だけでは生きていけない環境でした。
三陸沿岸地域の百姓は、専ら農耕に従事するという民ではなく、農耕と稼ぎ仕事を組合せて生活を維持する民でした。
命助もそのような民の一人でした。20歳の時に帰村した命助は、農業の他に、内陸と沿岸を行き来して、農産物を売る荷駄商いをして生計をたてていました。商いといっても、荷主としての商いではなく、自分が飼育した馬の背に荷を負わせて自ら手綱をとって売り歩くというものでした。
命助が扱った物品は、白米、米、餅、塩、小豆、柿、鮪、針金、蚕種、酢、長命草(煙草)、ひも、はかまなどで、商いの範囲は、南部領の大槌、山田、片岸、釜石、遠野、宮古や、伊達領の気仙と、広いものでした。
命助が学んだ遠野は、三陸沿岸地域と内陸地域を結ぶ中継商業の中心地として繁栄していましたから、彼の商いは遠野にも及んでいました。彼の生家の地から遠野城下までは片道30km余りの道のりだったことは前述のとおりですが、やはりこの間の行き来は容易いものではありませんでした。
明治年代のことですが、遠野までの距離が栗林村より少しだけ離れた大槌を午後3時から5時に出発した場合、夜通し馬を引いても遠野着は翌朝の8時から10時頃だったと伝わっています。これを「通し馬」といい、荷が鮮魚の場合、賃金は倍額になったといいます。
嘉永一揆
一揆の勃発
弘化一揆は、一揆勢の要求を藩当局が受け入れることで終結しました。一揆への参加者は、藩当局からなんのお咎めもなくそれぞれの村に戻りました。しかし、一揆が沈静化すると、藩当局は公約したことを次々と破棄し、再び増税や新税の挑発を強行しました。これが次の一揆の要因になります。
弘化一揆の6年後の嘉永6(1853)年、三陸沿岸地域の百姓らによって再び大規模な一揆が勃発しました。34歳の命助は、嘉永一揆に加わりました。
嘉永一揆の特徴
嘉永一揆が始まったのは、嘉永6年5月19日(グレゴリオ暦では6月25日)で、夏にかけての時期でした。一般的に、負担の軽減を求める百姓一揆は、秋の取り入れの時期かその後に発生しました。実際、弘化一揆は現在の12月末から1月上旬にかけて起こっています。米騒動の性格を持つ打ちこわしの場合は、米の端境期の夏場に発生しましたが、旧暦の5月下旬から秋にかけての百姓にとっては農作業に忙しい時期の一揆は、百姓にとっては不利な時期だったはずです。農繁期の夏であっても、敢えて百姓一揆を起こしたところに、百姓の現状に対する絶望の深さが現れていたといえます。
一揆勢は、田野畑村の畠山太助や栗林村の命助らを中心に「小○」(困る)の旗を押し立てて、136村から、女や子ども加わった大集団でした。
直線距離でも約80kmになる長距離を17日間踏破して各村から寄り集まった人数は、南部領三陸沿岸地域の南端であった釜石に到着した時、1万8千人を超えたと伝わっています。弘化一揆の際に遠野城下に押し寄せた人数が約1万2千人でした。三閉伊一揆は、弘化のものも嘉永のものも、日本最大級の百姓一揆でした。
ちなみに、日本最大の百姓一揆は、江戸初期である寛永14(1637)年12月に勃発した島原の乱で、この時の一揆参加者は約3万7千人といわれています。
仙台藩への越訴
弘化一揆では、遠野城下(遠野南部氏領)に向かい、そこで藩当局への要求を行いました。
今回の一揆勢は、6年前の弘化一揆で藩当局が一揆勢との公約を反故にしたことを鑑み、幕藩体制下の政治状況を利用して、今度こそは要求を実現させるために、南隣の仙台藩(伊達氏領)へ越訴しました。
江戸時代の越訴とは、管轄の役所・役人を越えて上級の官司に提訴することをいいます。南部領の百姓であった一揆勢は、領主である盛岡南部氏に訴えるのではなく、藩境を越えて伊達氏に提訴したのです。
もちろん、幕藩体制下において、各大名家は独立した政治勢力でした。
つまり、石高や官位の上下による大名間の格式の差はありましたが、伊達氏が盛岡南部氏の上司というわけではありませんでした。
ただし、各大名家は幕府によって監視されており、それぞれの領地内に、例えば百姓一揆が勃発するといった不手際があった場合、領主としての資質が問われて、最悪の場合、改易(領地没収のこと)といったこともあり得ました。
ですから、一揆勢は幕府の厳しい目が盛岡南部氏に向くという圧力が生まれるよう、伊達氏を利用しながら、企図したわけです。
藩境を越えて、伊達領北端の気仙郡唐丹村(現在の釜石市唐丹町)の河原に至った者は8千人余りでした。釜石に到着した一揆勢の内約1万人は、越境することなく帰村しました。
一揆勢の要求
一揆勢は、仙台藩に対して、52カ条という大部に及ぶ願書を提出しました。その内容は大きく分けて2種類であり、政治的要求が3カ条、これまでの税の減免や藩の専売制度に反対するなどといった盛岡藩の具体的な施策に関するものが49カ条でした。
画期的だったのが政治的要求で、第1条が「藩主の交替」を求めたもの、第2条が「三閉伊通(南部領の三陸沿岸地域)の百姓を仙台藩の領民として受け入れてほしい」と求めたもの、第3条が「三閉伊通を幕府直轄地か、もしできなければ仙台領にしてほしい」と求めたものでした。
特に政治的要求3カ条は、盛岡藩の施政に対する激しい不信・不満を表すものでした。
さすがに、政治的要求3カ条は認められませんでしたが、盛岡藩はそれ以外の要求の大部分を受け入れるとともに、一揆の指導者に対する処分を一切行いませんでした。また、この一揆によって、家老など多くの者が処分されるなど、盛岡藩政の改革につながりました。
一揆勢が勝利したのでした。一揆への参加者は、指導者も含めて無事帰村しました。
一揆後の命助
一揆終結後、命助も帰村しました。
しかし、一揆の責任を問われないとはいえ、一揆の指導者だったとして藩当局から警戒されていた中、村の騒動に巻き込まれたことで身の危険を感じ、1年足らずで南部領から脱出しました。
仙台領内に潜伏し、この間出家して、遠田郡下小牛田村(現在の宮城県遠田郡美里町)の修験道の当山派に属していた東寿院の住職となりました。
帰村の思いは強く、37歳の時、伊達領を離れ京都へ上りました。
これは、帰村しても藩当局から捕縛されない方法を模索してのことでした。京で五摂家の一つである二条家の家臣となりました。
38歳の時、栗林村へ向かうため、二条家の家臣として家来と共に藩境を守る盛岡藩の平田番所を通り、甲子村(現在の釜石市甲子町)に宿をとりました。このことが平田番所から大槌代官所へ報告され、脱藩の罪で捕らえられ、盛岡の牢に送られます。
入牢して7年目の元治元(1864)年2月10日に牢死し、45歳で生涯を終えました。
幼少期に遠野で学んだ命助は、獄中、家族に対して読み書きそろばんだけでない広いスキルの習得の重要性を「芸」という言葉で表し、その習得の重要性について書き残しています。