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私たちは、あの日を忘れない

 平成23(2011)年3月11日に発生した東日本大震災津波により、岩手県も大きな被害を受けました。特に、三陸海岸の各地は襲来した大津波により壊滅的な被害を被りました。


最大浸水深17.6mの大津波に襲われた陸前高田市のマイヤ高田店
岩手県における遠野市の位置

遠野高校の被害

 遠野市は、午後2時46分、震度5強の地震に襲われました。
 遠野市は岩手県東南部、北上高地の中心部という内陸部に位置している遠野盆地という小規模な盆地を中心としており、地質は安定した堅い岩盤である花崗岩質です。内陸部ですから津波による直接的な被害とは無縁であり、災害に強い土地であったこともあって、遠野高校の被害校舎3階にあるラウンジの天井が一部剥落するなどの比較的軽微なもので済みました。

遠野高校の被害
天井の一部が剥落

遠野市の状況

遠野市の被害

 遠野市では、発災当時沿岸部にいた4人の方がお亡くなりになりました。地震被害として600棟を超える家屋が一部損壊し、市役所本庁舎が1階の柱が折れて崩壊の危機から使用不能になり、市内全域の停電、断水・漏水被害の多発、燃料確保の困難という多くの問題に直面しました。
 ただ、大津波に襲われた沿岸部の市町村に比べると軽微な被害であったことや、何よりも内陸部と沿岸部の中間地点にあり2つの地域に通じる道路網が整備された結節点に位置する環境にあったこと、これまでの歴史的繋がり・絆もあって、遠野市は被災直後の支援活動や復旧・復興に係る支援活動で、重要な役割を担いました。

地理的に、遠野市を中心とした半径50キロの円内に、
沿岸部の宮古市、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、
さらに内陸部の盛岡市や奥州市までが包括されます。
そのため、遠野市からこの円内各地には、
防災ヘリコプターで約15分陸路でも約1時間で到達できます。

後方支援活動

 それは、沿岸被災地への後方支援活動の拠点としての役割でした。
 遠野市による本格的な後方支援活動が開始されたきっかけは、発災から約11時間後に災害対策本部にもたらされた被災地からのSOSでした。

 「大槌高校に500人が避難している。水も食料も全くない。なんとか手を貸してほしい」
 地震発生からおよそ11時間後の12日午前1時40分、災害対策本部に1人の男性が飛び込んできました。男性は、通信手段が途絶えた中で何とか助けを求めようと、大槌町から2つの峠を越えて遠野市にたどり着いたのでした。
 手に持つデジタルカメラは、被災地のすさまじい被害の実情を確かにとらえていました。その写真を見た本部役員の表情が険しくなっていきます。
 隣町の窮状を見捨てるわけにはいかない。遠野市はすぐさま毛布、非常食、水と灯油を車に積み込み、夜明けを待って同日午前4時50分、市職員2人が現地に向かいました。

3.11東日本大震災遠野市後方支援活動検証記録誌

 大槌町から遠野市にSOSをもたらした男性は、深夜、土坂峠(標高767m)と立丸峠(標高786m)を越えて遠野市に到達しました。
 遠野市の行った災害支援活動のノウハウ「遠野モデル」といい、現在、全国の内陸自治体に広まっています。

遠高生による支援活動

 遠野高校の生徒達は、発災2日後である3月13日の遠野市福祉センターでの炊き出しボランティアを皮切りに、被災地への物資支援活動の拠点となった稲荷下屋内運動場での救援物資の運搬整理等の多くのボランティア活動に参加しました。

被災された遠野市にお住まいの方々を中心にご案内を差し上げ、
遠野市総合福祉センターで、平成24(2012)年5月12日に開催しました。
邦楽部による箏の演奏。
平成24(2012)年5月12日。

 遠高生が行ったボランティア等について、当時の生徒会長が以下のように記しています。

自分にできることがあるなら一生懸命に取り組みたい
 県立遠野高等学校では、震災直後のボランティアとその後の大槌高校に対する支援を中心とした活動を行いました。主な活動内容は、次の通りです。
 ・大槌高校への衣服の寄付
 ・募金活動
 ・大槌高校への鍋城祭の売上げ金の寄付
です。この他にも、部活動の交流や練習試合を行ったり、生徒会執行部間の交流を行いました。震災直後の休校期間中は、各地域で行われたおにぎり作りや募金活動に参加しました。
 参加した生徒は皆、自分にできることは何なのか、自分にできることがあるなら一生懸命に取り組みたいという強い思いで取り組みを行いました。今後も可能な範囲で活動を続けていきます。また、今後震災が発生した時は、今回の経験を活かし、強い思いを持ってさらに充実した活動に取り組んでいきたいと考えています。

3.11東日本大震災遠野市後方支援活動検証記録誌
遠野高校生徒会執行部(右)から大槌高校生徒会執行部(左)
への義援金の贈呈を、大槌高校を訪問して行いました。
平成24(2012)年11月14日に行われた贈呈式。

大津波と遠野の歴史

七七十里の中心の地

 遠野盆地は東西約20km、南北約30kmの小規模な盆地です。ここは古来から、現在の岩手県の内陸部と沿岸部を結ぶ結節点であり、ヒト・モノ・情報が集散する「文化のクロスロード」でした。

 この遠野の地の地理的性格を表現したのが、「七七十里の中心の地」という言葉です。七が2つ並んでいますが、「最初の七」とは、内陸部の郡山(現在の紫波郡紫波町日詰)、花巻、岩谷堂(現在の奥州市江刺区岩谷堂)、沿岸部の大槌、釜石、高田(現在の陸前高田市)、盛(現在の大船渡市盛)を表しています。この7つの集落は、遠野の地から半径七十里(6町を1里とする小道〔坂東道〕計算で約46km)の所に開けていました。

明治時代の遠野の七ツ口(7つの出入り口)

 歴史的に、遠野の地は「七七十里の中心の地」であったことから、中継商業のセンターとして繁栄してきました。遠野の人々は、その繁栄の基礎であったネットワークでの繋がり・絆から、津波の常襲地帯である太平洋沿岸部と無縁ではありませんでした

「遠野物語」第99話 不思議な再会の話

 この繋がり・絆を表す話の1つが、「遠野物語」の第99話です。

土淵村の助役北川清という人の家は字火石にあり。代々の山臥にて祖父は正福院といい、学者にて著作多く、村のために尽したる人なり。清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所にありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はと見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物言うとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりと心付き、夜明けまで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく煩いたりといえり。

「遠野物語」第99話

 この第99話の背景には、東日本大震災津波発災の115年前、明治29(1896)年に起こった明治三陸大津波があります。
 第99話は、岩手県船越村田ノ浜(現在の山田町)に暮らす福二が、明治三陸大津波で命を落とした妻と再会する話で、地名や人名は全て実在しています。

「すずめの戸締まり」と山田町

 ちなみに、令和4(2022)年に公開された新海誠監督のアニメーション映画「すずめの戸締まり」に出てきた三陸鉄道の織笠駅や水門、巨大防潮堤は山田町のものです。

 もしかすると、新海誠監督による「遠野物語」へのオマージュなのかも知れません。

三陸鉄道織笠駅(山田町)

 なお、主人公のすずめの生家は宮古市赤前地区をモデルにしたようです。

宮古市赤前地区に設置されている戸。

 ところで、明治三陸大津波は、遠野高校の淵源である岩手県立遠野中学校が誕生する5年前「遠野物語」が発表される14年前に発生したものです。

遠野には果たすべき役割がある

 明治三陸大津波に際して、遠野からは物資や食糧を携えて、多くの人達と遠野の牛馬が沿岸部に向かって支援活動に従事したという記録が残されています。

 遠野市では、東日本大震災津波発災の前の平成19(2007)年、三陸沿岸8市町村と連携し後方支援体制を整備していく提案書を作成しました。
 そして、関係機関にこの構想の有用性を説いて回るとともに、何度も本格的な防災訓練を実施しました。
 「遠野モデル」と賞された後方支援活動が、円滑に展開された背景には、沿岸部との繋がり・絆を大切にしてきた歴史を踏まえた「遠野だからこその役割がある」という市民の強い意志がありました。

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