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玉音放送のあった日

 本校は、明治34(1901)年5月1日に授業が開始された、男子校岩手県立遠野中学校」を淵源とし、昭和24(1949)年4月1日に、明治41(1908)年に設立された「遠野町立女子職業補習学校」を淵源とする女子校統合して、現在に至ります。

 本校の歴史を辿る際、男子校だった学校を「旧中学校」と呼び、女子校だった学校を「旧女学校」と呼んでいます。


☆旧中学校の8月15日

 昭和20(1945)年8月15日の正午、いわゆる「玉音放送」が行われました。
 これは、当時日本唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)によるラジオ放送で、太平洋戦争終結に関するいわゆる「終戦詔書」を録音したレコード(昭和天皇が自身の肉声で詔書を朗読したものを録音)を、放送したものです。
 日本は、同年8月14日付けでいわゆるポツダム宣言を受諾しました。同日、終戦詔書を発布し、これを官報号外で告示していました。そして、この「終戦詔書」の内容、つまり「日本は連合国軍によるポツダム宣言を受諾したので、戦争は終わったのだ」ということを国民に周知するために、玉音放送が行われました。
 国民へ放送の実施を知らせるための予告放送が、14日12時のニュースと、15日午前7時21分のニュースとして計2回行われました。予告放送は「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」などといった内容でした。
 ちなみに、「玉音(「ぎょくおん」と読みます。)」とは、天皇の声という意味です。

🏭遠野中学校生徒の戦争

 終戦当時遠野中(本校の淵源の一つで、旧制の中学校)では、戦争の厳しい状況が高まる中で、授業が停止されていました。
 生徒達は、戦争を後方で支える戦力として動員され、食糧増産や軍需生産、防空防衛業務などに当たらされていました。この動員のことを「学徒動員」といいます。また、旧制中学校は5年制でしたが、昭和19(1944)年の戦時非常措置により4年制に短縮されていました。

「遠中学徒隊」の腕章

 当時、1年生と2年生は、土淵村(現在の遠野市土淵町)栃内米通山中で、食糧生産のために栗林を伐採し開墾する作業に動員されていました。
 3年生は、気仙郡大船渡町(現在の大船渡市)の三井造船大船渡造船所で木造船の製造に動員されていました。
 4年生は、県外である神奈川県横浜市横浜海軍航空技術支廠での動員中でした。
 また、学校自体は、昭和20年5月に行われた軍需監政官の学校視察によって、校舎が東京池貝鉄工所(現在の株式会社池貝)の疎開工場に指定されており、いわゆる「学校工場」となっていました。そのため、当時は、鉄工所の工員とともに、動員残留の生徒達が作業にあたっていました。

📻玉音放送

 8月15日正午、当時、ラジオが設置されていた宿直室前に職員や生徒等が集まり、玉音放送を聞きました。
 放送がカリカリという雑音の多いものだったことから、聞いた人達の多くは、放送内容の真意を呑み込むことができなかったようですが、全員が、日本は容易でない事態を迎えているのだと悟ったようです。
 放送後の沈黙の後、校長が沈鬱な声で、日本が無条件降伏をし敗戦したことを話しました
 学校は、直ちに生徒に下校を命じ緊急職員会議を開催して、事態の収束
について協議しました。

昭和20(1945)年度の教務日誌

⁂学校の対応

 緊急職員会議で最重要議題となったのは、横浜市や大船渡町に動員されていた生徒達を安全に帰校させることでした。そのため、学校はそれぞれ現地に教員を派遣することを決定しました。
 また、学校工場での作業の中止も決定しました。
 ただし、深刻化していた食糧難解決のため、土淵村での1・2年生の開墾作業に係る動員については、当分の間継続することも決定しました。この開墾作業の継続は、後に食糧難がさらに深刻化するにつれて、その緩和に役立つことになりました。
 その後の学校ですが、翌16日は全校農業を実施し、蕎麦畑の整地を行いましたが、18日に授業を再開しました。横浜市に動員されていた4年生も19日に帰校しました。
 開墾作業や授業の強行には、敗戦のショックから立ち直る方法としての目的もあり、生徒の動揺を抑制することができました。開墾作業は9月中旬まで行われました。

★旧女学校の8月15日

🏫岩手県立遠野高等女学校

 明治41(1908)年に設立された「遠野町立女子職業補習学校」は、その後、幾多の変遷を経て、大正15(1926)年に「岩手県立遠野高等女学校」と改称されました。
 これにより、当時の段階で岩手県立の高等女学校は、盛岡(現在の盛岡第二高校)、花巻(現在の花巻南高校)、一関(現在の一関第二高校)、一戸
(現在の一戸高校)、水沢(現在の水沢高校)、岩谷堂(現在の岩谷堂高校)と合わせて7校となりました。
 当時の高等女学校は4年制でした。

🏭遠野高等女学校生徒の戦争

 終戦当時、遠野高女の4年生は兵器、弾薬等軍需品の生産工場の職工として、県内黒沢尻町(現在の北上市)の県立黒沢尻工業学校(現在の黒沢尻工業高校の学校工場に動員されていました。

仙台に動員された生徒
遠野高等女学校の校章と陸軍の工場動員の胸章を佩用

 遠野高女の4年生は、既に前年、3年生の時に仙台市原町苦竹の東京第一陸軍造兵廠仙台製造所に動員されていたのですが、仙台市が空襲に遭ったため、動員先が変更になったのでした。

昭和20年、動員先の東京第一陸軍造兵廠仙台製造所への通勤定期券

 黒沢尻工業学校工場は、仙台造兵廠第四工場として東京第一陸軍造兵廠の機関銃弾を製造していました。黒沢尻工業学校工場での労働はとても厳しいものでした。
 このような動員による重労働に耐えかねて、過労により亡くなった生徒もおりました。

 動員されなかった生徒は、学校に在って勉学に努めながらも、食糧増産や勤労奉仕作業に従っていました。

             手記集 戦時下の青春
仙台と黒沢尻工業工場へ動員
                駒井(旧姓 風呂)和子
               (昭和21年 遠野高等女学校第20回卒業)
 昭和19年11月末、私たちは遠野高女3年生に学徒動員令が下り、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠に行き、小銃弾の製造にあたった。出発は雪が降る寒い日だった。夕方工場に着き、体育館のような広間に集まり、荷物の着くのを待ったが、とうとう布団なしで防火用のむしろを被ったまま一夜を明かすことになった。
 翌日から朝6時起床、水で洗面し、部屋掃除をして出勤し、終わると電車にすし詰めになって寮に帰るという毎日が続いた。
 一番悲しかったのは食事だった。毎日サツマイモをかじり、朝夕往復の途中、民家から漂う味噌汁や魚を焼く匂いを嗅ぐと無性に家が恋しくなった。まじめに働いたご褒美に「おやつ券」をいただき、食堂で列をつくっていただくものは塩で味付けした小豆の団子だった。それでもおなかを空かした私たちにはご馳走だった。
 12時間労働に疲れ切って病気になる人も出てきた。私と同じ班で働いていた萬さんが旋盤に袖が巻き付いて腕の肉がえぐり取られたことがあった。隣の旋盤で作業をしていた私たちは電源スイッチを切って医務室に連れて行って手当てをした。
 昭和20年になると仙台も空襲が激しくなり、警報のサイレンが鳴ると防空壕に入り、息を殺して飛行機の飛び去るのを待った。いつ爆弾が命中するか
分からない、生きた心地のしない時を過ごさなければならなかった。
 空襲がますます激しくなり、5月に黒沢尻に移ることになった。その頃同じクラスのツネちゃん(菊池ツネ/松崎町)が病気(急性盲腸炎)のため死亡した。本当に悲しくつらい出来事だった。
 黒沢尻工業学校は工場に変わっていた。夜勤と日勤の二班に分かれ一週間交替で働いた。苦しく辛くなると、皆で歌を歌ってお互いに励まし合った。学徒動員の歌だった。
           /「戦時下の青春・遠野高等学校2年4組編」より

遠野高校百年史

○釜石市学童疎開の受け入れ

 昭和20年3月、岩手県は釜石市内の国民学校(現在の小学校)児童の県内上閉伊郡西部各町村への「学童疎開」を命じました。
 これは、当時の釜石市には、国内の鉄鋼生産量一、二を争う日本製鐵釜石製鉄所があり、アメリカ軍による攻撃目標になることが予想されてからです。昭和20年当時、遠野の郷の西隣には釜石市がありました。そして、遠野の郷の中心である遠野の町は上閉伊郡遠野町でした。ですから、「上閉伊郡西部各町村への学童疎開」となれば、遠野高女のあった遠野町や、現在は遠野市内になっている遠野の郷の西部にある青笹村等への疎開ということになりました。
 そこで、4月に入ると、釜石国民学校初等科3年生以上の女児100名が、釜石市の西境にある仙人峠を越えて遠野高女に疎開してきました。
 その後、釜石市7月14日8月9日の二度にわたって三陸海岸沖のアメリカ艦隊から艦砲射撃を受け大きな被害を出しました。
 2度目の艦砲射撃の翌日、釜石高等女学校(現在の釜石高校1年生が、遠野高女に疎開してきました。釜石高女の生徒の中には、前日の艦砲射撃により親や弟妹など肉親の命を奪われる悲運に泣く者もいました。
 釜石高女1年生の疎開に伴い、既に遠野高女に疎開していた児童達は更に近村へと移動していきました。

📻8月15日の遠野高女

 玉音放送のあった日、遠野高女には残留していた遠野高女の生徒や疎開してきた釜石高女の生徒、それぞれの職員などがおりました。


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