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遠野の郷の、中世(阿曾沼氏の時代)

 江戸時代、遠野南部氏に統治されていた遠野の郷ですが、南部一族が統治する以前の領主は、阿曾沼(あそぬま)氏でした。


阿曾沼公歴代の碑を示す遠野市のプレート

🔥阿曾沼氏のルーツ

 阿曾沼氏は、藤原秀郷の子孫である足利有綱の四男だった広綱が、下野国安蘇郡阿曾沼郷(現在の栃木県佐野市浅沼)に居住して「阿曾沼氏」を称したのが始まりです。

阿曾沼氏の家紋である木瓜(もっこう)
瓜を輪切りにした断面や鳥の巣を図案化したとされている、子孫繁栄を祈る家紋です。
木瓜紋を用いた、他の有名な戦国大名には織田信長がいます(織田木瓜)。

 ちなみに、足利有綱が称していた「足利氏」は下野国足利荘(現在の栃木県足利市)に支配権を持っていたことで足利氏を称していましたが、歴史的には、同様に足利荘に支配権を持っていた「源姓足利氏(清和源氏の一族であり、後に室町幕府を開く足利尊氏が出た一族)」と区別して、「藤姓足利氏」と呼ばれます。

祖である藤原秀郷とは?

 なお、藤原秀郷藤原北家の子孫です。
 平貞盛とともに秀郷が、10世紀後半に関東で勃発した平将門の乱を鎮圧したことから、その武名はとても高まり、その後その子孫は広く繁栄しました。
 平泉を中心に約100年間の栄華を築いた奥州藤原氏も秀郷の子孫でした。

奥州藤原氏の繁栄を今に伝える中尊寺金色堂

🔥阿曾沼氏の遠野領有

 阿曾沼広綱は、文治5(1189)年の源頼朝による奥州合戦に従軍して戦功を挙げました

鎌倉の源氏山公園の源頼朝像

 奥州合戦後、源頼朝は、奥州藤原氏の支配領域を関東の御家人達に分け与えましたが、この時、阿曾沼広綱は遠野地域を支配する地頭として任じられたと考えられています。この時、源頼朝から与えられたのが遠野十二郷でしたが、この領域は、現在の遠野市に加えて、内陸地方の花巻市田瀬、三陸沿岸地方の釜石市・大槌町・山田町が含まれていたと考えられています。
 阿曾沼氏(以下、「遠野阿曾沼氏」と記します。)は、遠野の松崎光興寺の地に、横田城を築きました。一族の家臣たちは、領内の各地に館を築き、それぞれの土地を支配しました。
 ただし、下野(現在の栃木県)に本領にあった遠野阿曾沼氏は、遠野地域の統治を、初めのうちは代官として一族に連なる宇夫方氏を派遣して行っていたようです。遠野阿曾沼氏が遠野の地に下向したのは、14世紀の南北朝期のようです。

🔥遠野の郷の開発と発展

 遠野阿曾沼氏の家臣達は、それぞれの土地の開発に努めたため、以後、遠野地域の産業は大いに発展したと想像されています。
 その結果、松崎地域や綾織地域等の猿ヶ石川流域では、本格的に稲作農業が行われるようになり、上郷地域や青笹地域のような高冷地や扇状台地では、畑作が行われムギ・ヒエ・アワ・マメ等の雑穀栽培が進んだと考えられています。
 遠野の郷は、すでに鎌倉時代以前から、内陸地方と三陸沿岸地方を結ぶ重要な交通の要地だったと考えられています。各地から商人達が集まって市場が立ち、それとともに宿屋や湯屋も発達していったようです。

 遠野高校は、遠野市の六日町に所在します。この六日町という地名は、毎月六の日に市が開かれたことによるものです。
 また、遠野阿曾沼氏は、以前からの遠野地方の中心的な産業であった金山開発に努めるとともに、馬産も奨励したと考えられています。

遠野の金山である小友金山の一つ
江戸時代(享保2〔1717〕年)になってから発掘されたものですが、小友蟹沢(かんさ)金山の跡から湧き出ているのがこの黄金の滴の水で、遠野市水源の中で唯一無菌 の天然水です。
無殺菌のため、利用は自己責任でとなります。ご注意ください。

 遠野阿曾沼氏と共に家臣とその一族達が、関東地方から遠野に移住してくるようになると、鎌倉仏教の一つで、特に武士の間に広まった禅宗の一派である臨済宗遠野の郷に伝わり、多くの寺院が建立されました。

🔥遠野阿曾沼氏の最盛期(戦国時代/16世紀末)

阿曾沼広郷の活躍

 遠野阿曾沼氏が最盛期を迎えたのが、16世紀末の第13代広郷の時代です。広郷は、遠野阿曽沼氏歴代の中で武勇にも秀でた傑出した人物だったと評されています

阿曾沼公歴代の碑

 広郷は、それまで現在の松崎町光興にあった居城の横田城を、鍋倉山に移して横田城(ややこしいですが、城が移された当時は「横田城」と呼んでいました。この横田城を「鍋倉城」と改称したのが、江戸時代の遠野南部氏です。)と称しました。

横田城(後の鍋倉城)本丸址

 また、広郷は、城を鍋倉山に移した後、中河原と称していた河原に町を開きました。この新たに開かれた町で、一の日の市日を行うようになりました。この頃から遠野の郷は、中継商業の中心地としての条件が次第に整えられてきました。
 広郷は、遠野という僻遠の地にありながら、天正7(1579)年7月、使者を京都に送り、当時内大臣であった織田信長に白鷹を贈っていて、このことに関しては「信長公記」にも記事があります。

織田信長と安土城のイラスト

遠野阿曾沼氏の凋落

 このように、信長に誼みを通じるなど、よく天下の形勢に目を配り如才のなさを発揮した広郷でしたが、信長亡き後、天下統一事業を完成した豊臣秀吉により、遠野の郷の領主権を没収されることになります。その原因になったのが、天正18(1590)年の秀吉が起こした小田原合戦への不参でした。

小田原城址

 江戸時代、遠野南部氏に仕えた宇夫方広隆(「うぶかた ひろたか」と読みます。)が18世紀に著した「阿曾沼荒廃記」に、この間の経緯について記しています。宇夫方広隆の「阿曾沼荒廃記」は漢文体で読み難いですので、その内容を、高柳俊郎著「私本阿曾沼荒廃記」から引用して紹介します。

 天正10年(1582)[午年]6月、信長公がお亡くなりになった後は羽柴秀吉公の武勇が強かった。上方筋の大小名はその威勢に圧倒され、秀吉に服従して本領安堵の御朱印を頂戴した。遠国の大小名で秀吉公で秀吉公の素性が賤しいと軽くみて、永く天下を支配する武将とはならないだろうと侮った者もいた。それで降参の申し出もしないで、それぞれの周りの領主たちと互いに勢力争いをするようになっていた。
 それで広郷はもちろん秀吉に挨拶もしないし、小田原攻めの陣営にも参陣しなかった。秀吉から見ると、これは無礼であるという強いお怒りがあって、本領を没収することになった。だが、そのころ秀吉公の気に入りの家来であった蒲生飛騨守氏郷は、阿曾沼の先祖と同じ家柄で、両家は子孫代々、お互いに連絡を絶つことが無く、親しい間柄だったので、氏郷が取りなして本領安堵の御朱印が下された。しかし、罰として、これから南部大膳太夫信直の附庸(=付属)となって、指図を受けるように命じた。軍務があるときは信直からの指示に従うようにという命令である。

「私本阿曾沼荒廃記」

戦国大名の蒲生氏と遠野阿曾沼氏の関係

 ちなみに、戦国大名である蒲生氏郷の蒲生氏も、藤原秀郷を祖としている一族でした。ただ、阿曾沼氏と蒲生氏の流れの分岐は、藤原秀郷の息子達の時代、つまり平安時代中期である10世紀後半のことでした。小田原合戦の600年以上前の出来事です。それにも関わらず「阿曾沼荒廃記」が「両家は子孫代々、お互いに連絡を絶つことが無く、親しい間柄だった」と記すのですから、中世の大名家間の人脈というのはすごいものですね

小田原不参の本当の理由

 さて、今から300年ほど前、宇夫方広隆が「阿曾沼荒廃記」で「広郷は小田原合戦に際して、天下の形勢を見誤った」と記していますが、結果的な事実はそうであっても実情は異なっていたようです
 遠野及びその付近は、広郷に圧迫されてその指揮下にあるものの、隙あらば取って代わろうとする豪族が多数いて、なかでも阿曾沼氏一族の鱒沢氏は広郷と度々合戦を交え、広郷を滅ぼそうとしていました。このような状況下ですから、広郷がもし、遠野を離れれば、たちまち横田城はもとよりその領地は瓦解すること必至であったという現実がありました。このように、広郷周囲の状況は、小田原参陣など出来るはずもない状態だったのです。

 小田原合戦後、豊臣秀吉による奥州仕置の結果、鎌倉時代以来命脈を保ってきた東北地方の多くの旧勢力は滅亡してしまいます。
 この時の遠野阿曾沼氏は、からくも滅亡は免れましたが、遠野の郷の独立大名としての領主権を失いました。一方、遠野阿曾沼氏と同様、鎌倉時代以来大名として勢力を築いてきて、その次に遠野の郷を領有する南部氏は、小田原参陣を果たすことにより、生き延びることができたのです。

🔥遠野阿曾沼氏による遠野統治の終了

 慶長5年(1600)年、「天下分け目の戦い」といわれた関ヶ原合戦が勃発しました。この合戦に関連して「慶長出羽合戦」が勃発しました。この戦いは「北の関ヶ原」とも呼ばれるもので、石田三成方(西軍)の上杉景勝家臣直江兼続が、徳川家康方(東軍)の最上義光領である出羽(現在の山形県)に侵攻することで勃発しました。
 広郷のあとを継いだ第14代阿曾沼広長は、徳川方に味方して、最上氏を応援するため南部氏とともにその配下として出羽に出陣しました。
 出羽への出兵が終わった広長でしたが、帰城の途次、居城である横田城が鱒沢氏によって占領されたことを知り、遠野に戻れず、妻の実家であり遠野の隣地である気仙郡世田米城(現在の気仙郡住田町世田米)に逃れました。広長の妻子は、横田城から逃れる途中で殺害されたといいます。広長は、三度にわたり遠野奪還を企てましたが、結局失敗しました。
 その後、関ヶ原合戦に勝利した徳川家康により、遠野の郷は、南部氏による領有が決定されました
 これによって遠野の郷は、名実ともに南部領となり、400年余り続いた遠野阿曾沼氏の統治が終わったのです。


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