遠野武者の風(江戸時代の教育事情)
「遠野の郷は、教学の地」の記事で、幕末期の遠野は、信成堂や文武修行宿が設置されるなど、教育文化の盛んな土地だったと記しました。
しかし、江戸時代中期頃までの遠野は、教学の地とはいえない状態がありました。これは、当時、支配階級である武士が、自分の子どもが読み書きを習うことを嫌っていたことが背景にありました。
このような武士の実情について、遠野南部氏に仕えた宇夫方広隆(うぶかた・ひろたか)は、17世紀末である元禄時代の様子として「自分が幼い頃まで、読み書きのできない者たちもいた」と「遠野古事記」に記しています。当時、読み書きできないものを「無筆」といっていました。
江戸時代中期頃までは、相当の地位の武士階級の者でも文盲の者が少なくなかったようです。
このような家臣の状況は、領地統治という観点で遠野の領主を困らせました。そのため、様々な施策により学問の奨励を図ったようですが、奨励すればするほど逆効果になったといいます。
それでは、なぜ、当時の遠野の武士たちは、子どもに読み書きを習わせなかったのか。このことについて、宇夫方広隆は「遠野古事記」に以下のように記しています。
「遠野古事記」の内容を意訳すると、「乱世の時代のどこの国のことか分からないが、『秘密の業務を命じ、秘密文書を書いた祐筆を殺した大将がニ三人いた』という噂が、世間に流布していた。学問などした結果、祐筆として召し出され、秘密文書などを取り扱わされた上、その機密を守るために殺され闇から闇に葬られるより、教育を受けなかった結果文盲になり、不自由であっても、殺されるよりはましである。そのため、好学の子どもがいた場合、その祖父や親は、『学問など無用だ』と禁止した。」ということになります。
広隆は、「学問好きの子どもの中には、家族から隠れて密かに習って、結果的に能筆といわれるようになった人もいた。」と記しています。祐筆(ゆうひつ)とは、武家の文書・記録の作成を担った秘書役の文官のことです。
このように、戦国の遺風を引きずることで、自己防衛策として教育を避けた武士達でしたが、大事な政務に当たる役務の家柄の者や、公文書を扱う家の者は、無学文盲では勤まらないので、自宅に私塾を設けて子弟や一族の者に教授したのだそうです。
このような風潮も、19世紀前半の文化・文政期になると、ようやく教育の必要性が広く認識されるになりました。そして、文化・文政期から約半世紀を経た幕末期の遠野における教学の興隆につながるのです。
なお、宇夫方広隆ですが、元禄元(1688)年生まれで、詩文・和歌や兵法・砲術・弓・馬術などもよくした才人だったと伝わっています。
「遠野古事記」は宝暦12(1762)年に成立(当初の表題は「遠野旧事記」)した、いわゆる古文書です。