各校が現地から更新!全国にある地域みらい留学の留学先校の最新記事をあつめました。学校や地域、生徒のみなさんなどそこで暮らす人のリアルな情報を読むことができます。気になる学校をより立体的に、親しみをもって感じることができるかも!
遠野高等学校
遠野の郷は、岩手県の中央部、北に北上高地の最高峰である早池峰山、東に遠野小富士の異名を持つ六角牛山、北西に石上山の遠野三山に囲まれた風光明媚な、標高約260mの遠野盆地にあります。「遠野物語」で描かれた民話の郷としても有名で、この郷に遠野高校は在ります。
校是「師弟一如(教師と生徒が一つとなって、真理を探究し、校訓を実践するという意味)」のもと、本校で学ぶ遠高生と学校の日々の様子についてお知らせします。なお、本校の校訓は「修徳尚武( 徳を修め、武を尊び、心身ともに豊かになるという意味)」です。
こちらが最新版です! 本校の探究活動「新しい『遠野物語』を創るプロジェクト」令和6年度の専用マガジンです!
昭和23(1948)年創部のサッカー部は、令和6年度現在、全国高等学校サッカー選手権大会で、準優勝を1回、ベスト4を2回、ベスト8を3回という成績を残しており、これまで多くのプロ選手を輩出しています。
令和5年10月29日(日)10:30。 第102回全国高等学校サッカー選手権岩手県大会準決勝が、いわぎんスタジアムで行われ、本校は盛岡中央高校と対戦しました。 前半、盛岡中央が先制しようと猛攻し、何度か危ない場面がありましたが、選手たちが見事にセーブ、得点を許しません。 なかなか得点のチャンスが到来しなかったものの、前半26分で5番菊池遥大選手が先制!遠野の応援スタンド側は大興奮に包まれました。 後半、盛岡中央は選手を交替し、反撃を狙いますが遠野の鉄壁の守りに阻まれます。
遠野高校の淵源は、明治34(1901)年5月1日に授業が開始された、男子校「岩手県立遠野中学校」という旧制中学校です。 遠野中学校の開校は、遠野の人々による猛烈な早期設置運動によって実現したものでした。 校舎の建造は、総工費5万9千460円(当時)、5年継続事業として行われ、第1期工事が明治34年1月に完了しました。 遠野の人々の夢と希望を託して完成した校舎は、壁が全て白壁造りで、屋根は、当時、遠野には1軒もなかった瓦屋根、入り口の扉はもちろん各教室の板戸は全てヒノ
寺沢高原(遠野市宮守町)の頂きには、標高約1,000mに設けられた展望台があります。 寺沢高原は、標高1,000m前後の比較的平坦な山が連なる北上高地の山の一つです。 ここの展望台からは、早池峰山(標高1,917mで北上高地最高峰)、六甲牛山(標高1,294m)、石上山(標高1,038m)の遠野三山が望めます。 また、岩手山(標高2,038m)、早池峰山、姫神山(標高1,124m)という旧盛岡藩の三鎮山、さらに、山形県と秋田県に跨がる標高2,236mの東北第2位の
遠野高校の淵源は、明治34(1901)年5月1日に授業が開始された、男子校「岩手県立遠野中学校」という旧制中学校です。 遠野中学校の開校は、遠野の人々による猛烈な早期設置運動によって実現したものでした。 明治33(1900)年6月5日の岩手県会で、福岡中学校と遠野中学校の同時設立案が議決され、翌34(1901)年1月31日に文部省から学級数8、生徒定員400人で設置が認可されました。 🏫鹿児島県出身、27歳の青年校長 初代校長は、鹿児島県出身で東京帝国大学(現在の
令和5年10月14日(土)早朝、遠野の郷は霧に覆われました。 🌥遠野の雲海 遠野の郷を一望できる標高約770mの高清水高原に行って見ると、目の前には一面の雲海が広がっていました。 500m下には、盆地の中に遠野の郷があるはずなのですが、見えません。 郷を覆っていた霧の正体は、雲だった・・・ 遠野の郷を覆う雲海は、毎年9月頃からの夜明けから午前8時くらいまでの早朝、前日から天気が良く放射冷却が発生する条件の時に、高い確率で見られます。 🌥一に薮川、二に田代
🚲️遠野警察署長さんが本日来校しました 令和5年10月13日(金)のお昼休み時間に、遠野警察署から署長さんを含め3名の署員の方々が来校しました。 この贈呈式は防犯意識を持ってもらいたいという趣旨のもと、例年実施されています。 🚲️贈呈式が始まりました 令和5年、遠野市内では自転車盗難が1件発生していますが、無施錠で駐輪中の自転車が被害に遭われたそうです。やはり、普段から施錠を心掛けることは大切ですね。被害に遭わないためには、自転車の鍵の他、チェーン錠やワイヤー錠を付け